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小説 「吉岡奇譚」 9

9.交替要員

 坂元くんが風邪をこじらせて寝込んでしまったらしく、休み始めて一週間になる。繊細な彼のことだから、身体的な不調で寝込んだのをきっかけに、精神的にも調子を崩している気がする。「出勤できる日が判ったら連絡してくれ」と伝えてあるのだが、一向に連絡が来ない。
 私達は、寂しい食生活を続けていた。

 そんな中、玄ちゃんの体調は落ち着いてきたようなので、私達は4人で食事会をすることになった。私は、藤森ちゃんが滞在中のゲストハウスに、夫と玄ちゃんを連れて行った。
 ゲストハウス1階のカフェの、庭がよく見えるテーブル席で、飲み物と軽食を頼み、まずは ひったくりに遭った日の話をする。(夫と玄ちゃんが並んで座り、向かい側に私と藤森ちゃんが座った。)
【あの時は、ありがとうございました】
彼女が筆談具に書いた文章を見せると、玄ちゃんは「当然のことをしたまでです」と応えた。(今日も、ヘッドホンは無しである。)
 その後、店内にあるアート作品の話や、他愛もない世間話が続く。私は、彼らの会話を耳に聴きながら、持参したクロッキー帳に、中庭の植物をスケッチする。
 時折、店主や他の客が絵を覗きにやってくるので、適当に相手をする。
「へぇ。藤森さんは、掃除屋さんなんだね。……先生も、昔やってたよね」
玄ちゃんが、私に職歴の話を振る。
「あぁ、やってたよ。すごく楽しかった」
「楽しかったのか?」と、夫が言う。
「公園清掃は楽しいよ。良い運動になるし、面白い友達がたくさん出来る」
「諒ちゃん、本当に公園好きだな」
「とても好きだよ。私は、土の上を歩く権利を奪われたら、いとも簡単に気がおかしくなるんだ。毎日、太陽の下、緑の中を、歩く時間を作らないと……すぐに、ろくでもない夢を見る」
私は、そう言いながら、ずっと植木を描いている。
「ろくでもない夢って、どんな夢?」
「え……」
玄ちゃんの問いに、私は正直に答えるかどうか迷った。
「そうだなぁ……。誰かに首を絞められたり、浴槽に沈められたり……自分の歯が、全て抜け落ちたり……高い崖から落ちたり……」
「うわぁ。本当に、ろくでもないね!」
玄ちゃんは そう言ったが、そのくらいなら、まだ、可愛らしいほうである。罵詈雑言の洪水の中で、酒と薬に浸らざるを得なかった日々の記憶を夢に見るほうが、よほど苦しい。……見境なく、人を傷つけてしまうほどに。
 私が義手を眺めていることに気付いたらしい夫が、小さく「どうした?」と言いながら、メカニカルな手先を動かしてみせた。
「いや……『やっぱり、プライベート用は綺麗だなぁ』と思って……」
「そりゃあ、なぁ」
 その後、夫は藤森ちゃんに「地元はどこ?」とか「自炊したことある?」などと、プライベートに関する質問をいくつかした。
 彼女は、食品加工の仕事も経験しているらしく、少なくとも私や夫よりは料理が上手いと思われた。

 その後、私は他の客に絵を見せたり、名刺を配ったりした後、店主に「後日、泊まりたい」と願い出た。店主は快諾し、その場で予約をさせてくれた。
 私は、夫のスケジュールを確認してから、宿泊の日取りを決めた。
 玄ちゃんは、藤森ちゃんと2人で庭に出ていた。庭にもテーブル席があり、2人はそこで筆談のみの「秘密の話」をしていた。


 無事に食事会を終えて解散し、私達3人は駅に向かう。
「僕、藤森さんとLINE交換したよ」
「良かったじゃないか」
「いひひひひ……」
玄ちゃんは、にやにや笑いながら、ずっとスマートフォンを眺めている。
「歩きスマホは危ないよ、玄ちゃん」
私が忠告しても、彼はやめなかった。
「俺、物足りねえから2軒目に行きたいな」
夫が、右手で自分の腹をさすりながら言った。
「飲んで帰ろっかな……」
「僕も、ご一緒していいですか?」
玄ちゃんが、画面から顔を上げた。
「いいっすよ。……諒ちゃん、どうする?」
「私は帰るよ」
「じゃ、解散だな」
 駅に着くと、私だけが改札を抜け、2人は駅ビルの中に消えていった。


 帰宅後、坂元くんに連絡を取ってみたが、電話には出ないし、LINEは何時間待っても既読が付かない。彼らしくない。
(よほど具合が悪いのだろうな……)
 私は、3階のベランダに出て、立ったまま煙草を吸い始めた。月を見上げながら、明日以降の食事について考える。
 考えるだけで、億劫だ……。私達は、2人とも絶望的に炊事が苦手だ。
(こういう時のために、ハウスキーパーが、もう一人居てもいいよな……)
 早めに煙草の火を消し、私は、アトリエ内の金庫に保管しているハウスキーパーの雇用に関する出納帳と、人件費の管理用口座の通帳を開いた。
(彼よりも低時給で、補佐的な立場の人材が、一人居てくれれば……非常に助かる)
もちろん、夫と弟にも相談するが。
 私は、スマートフォンの中に保存してある、かつて弟が坂元くんに送った求人票の原本となったファイルを開き、記載内容を最新の情報に更新した。
 彼らの同意が得られたら、私は それを藤森ちゃんに送りたいと考えた。
 清掃業の賃金相場を、私は身をもって知っている。今のままでは、アパートを借りるための貯蓄や、その後の家賃の支払いは、なかなか難しいだろう。とはいえ、口話の出来ない彼女が選べる仕事は限られている……。
 何より、私は とにかく人手が欲しい。坂元くんが気兼ねなく休暇を取れるようにしてやりたい。彼女からの返事がNOなら、他の人材を探す。

 酒に酔って帰ってきた夫に「藤森ちゃんをハウスキーパーとして雇いたい」と言ったら、二つ返事で賛同してくれた。
「あんな可愛い子が毎日来てくれるんなら、俺、毎日もっと早く帰るー!」
そう言って へらへら笑いながら、リビングで煙草に火を点けようとした。
 私は、反射的にライターをひったくった。
「ベランダで吸う約束だろ」
「お堅いなぁ……。良いじゃねえかよ、2人とも吸うんだから」
「吸わない人も通ってくるからだよ!」
「……わかったよ」
夫は、諦めて立ち上がり、ベランダに続く窓を開けた。私は、そこでライターを返した。
 彼は外に出て、きちんと窓を閉めてから、今度こそ煙草に火を点けた。

 我が家のベランダには、洗濯物を干すのに支障が無い位置に、水の入った吸い殻入れと、喫煙時に座るための陶器製の椅子が置いてある。
 彼は、その小さな椅子に座って、先ほどの私と同じように、月を眺めている。

 煙が出なくなった頃を見計らい、私は窓を開けて、彼に「寒くないか?」と訊いた。
 吸い殻を捨てるために少し背中を丸めていた彼は、私の問いには答えず「俺、藤森ちゃんの前では吸わないことにする」とだけ言った。
 私は、理由など訊かなかった。


次のエピソード
【10.原点回帰】
https://note.com/mokkei4486/n/nc4c71499c041

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