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小説 「吉岡奇譚」 10

10.原点回帰

 私が、自宅で岩くんと2人きりになるのは、本当に何年ぶりか分からない。彼は、基本的には坂元くんの出勤日にしか訪ねてこないのだ。(今日は、夫も不在である。)
 彼が、応接室で執筆する私の分も、緑茶を淹れてくれた。(彼は、いつも和室で休む前に、必ず水分を摂る。)
 彼は、私が操作するパソコンの画面が見えない位置に着席し、自分で淹れた緑茶を のんびりと飲んでいる。
「坂元さん、休職されてるんですか?」
「そうなんだよ……。風邪で寝込んだのをきっかけに、持病が悪化したみたいでね。とりあえず、今月いっぱいは休ませるよ」
彼も、坂元くんの持病については知っている。
「是非、ゆっくりと静養していただきたいところですが……先生方のお食事は、どうされてますか?」
「仕方がないから、私が電子レンジで頑張っているよ」
「悠介さんは、相変わらず お忙しいのですか?」
「君ほど忙しくはないけれども。毎日、目を回して帰ってくるよ。……炊事どころではないね」
「どうか、ご無理はなさらぬよう……よろしくお伝えください」
彼は、とても優しい。何年経っても、変わらない。私の担当から外れた今でも、私達の健康状態を気遣ってくれる。(私の健康管理に関する弟からの依頼は、まだ続いているのかもしれない。)
「だから、ハウスキーパーを もう一人増やすことにしたんだ」
「それは、良いお考えだと思います」
「既に内定者が居るんだ。21歳の女性だよ」
 先日、私は藤森ちゃんに求人票を送信し、見学と面接を経て、正式に『採用』を決めた。(当面は、清掃業とのダブルワークになる。)そのことは、坂元くんにも伝えてある。
「随分と、お若い方ですね」
「とても可愛い子だよ」
「お会いできるのが楽しみです」
私は、キーボードを打つのを一旦やめて、淹れてもらった緑茶に口をつけた。
「彼女は……失声症なんだ」
「声が出ない、ということですか?」
「そうだよ。対面なら、いつも筆談をしている。……耳は健聴だし、会話するのに、特に不自由は無いかな。とても綺麗な字を書く子だよ」
彼は、何も言わなかった。
 ぼんやりして、意識が曇りつつあるような気がした。
「どうした?」
「いえ……」
目を開けているのさえ、辛そうだ。
「……休んでおいでよ」
「恐れ入ります」
彼は、一礼してから緑茶を飲み干し、私が「湯呑みはそのままでいいよ」と言うと、更にまた一礼して、和室に向かった。
 彼が寝る布団は、既に私が敷いてある。


 2時間近く経って、ようやく彼が起きてきた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「おかげさまで……」
今は仮眠明けで、少しすっきりした顔をしているが、ここ数年、彼の目の下は、ずっと黒いままだ。クマが消えることは無い。
「昼は、まだだろ?粗末なものだけれども、食べていきなよ」
「えっ……」
私が用意したものを彼が食べるのは、ひょっとすると初めてかもしれない。(逆のパターンは、坂元くんの着任前には数えきれないほどあった。当時の彼は、本当に「編集者」というより「世話係」だった。)
 私は、彼が寝ている間に、一人で食べてしまった。

 2階で、本当に粗末な昼食を出した。電子レンジによる加熱で茹でたスパゲティーにレトルトのソースをかけただけのメインディッシュと、カット野菜を皿に移しただけのサラダと、朝食用に作った味噌汁の残りである。坂元くんの手料理に慣れている人に、こんなものを出すのは、本当に恥ずかしい。
「頂きます」
 彼は、至極つまらない料理を前に、恭しく手を合わせ、何か神聖な物に箸をつけるかのように、厳かに、ゆっくりと味わいながら食べ始めた。(彼は、パスタを食べる時でも箸を使う。)
「不味いとは思うよ」
「そんなことはありません」
蕎麦を食べるかのように、器を持って、静かに麺をすする。(彼は、寝起きは いつも動作が ゆっくりである。)
 味噌汁を一口飲んだ彼が「美味しい……」と呟いた時、私は、他の何物にも替え難いような安心感と、自己肯定感を得た。
「これ美味しいですよ、先生。インスタントではないでしょう?」
「僭越ながら、自作だよ。坂元くんには到底及ばないけれども……」
「美味しいです。とても」
「……ありがとう」
 初めて、夫以外の人に自作の料理を褒めてもらった。(夫は、何を食べても「美味い!」しか言わないので、その評価は正直あまり当てにならない。)
 私は、彼を他の どの編集者よりも信頼している。その彼が言う「美味しい」は、喜ばしいを通り越して、誇らしいとさえ思う。
 まさに【喫茶きっさ喫飯きっぱん】と云うべき静かな食事を終えた彼が、静かに手を合わせた。
「ご馳走様でした」
「それだけで足りるかい?」
「遅い昼食なので、軽めにしないと……夕食が入りません」
「なるほど」
 多忙な彼は、いつもなら私の2.5倍は食べていく。それでも、太っている姿を見たことがない。

 普段なら坂元くんがやってくれる後片付けを、私がする。
 私が一仕事終えて食卓に戻ると、彼は至って事務的な話を始めた。
「先生の、担当編集者のことなのですが……」
「何だい?」
「彼女は先週、退職しました」
「急だねぇ!?」
私は、そんな連絡は受けていない。
「彼女の勤務態度が、営業部長の逆鱗に触れまして……」
「営業部長って……君の お義父とう様じゃないか」
彼の妻は、彼の勤務先の 営業部長の娘であり……社長の姪である。
「何を しでかしたんだい?」
「それは、社外秘です」
「うわぁ、おっかないね……!」
「そのため……暫定的に、吉岡先生の担当を、私が務めさせていただきます」
「暫定なのかい?」
「私は……いずれ、総務部に移ります」
「総務!?……編集者ではなくなってしまうのかい?」
「入社当初は総務部に居ましたから、いわば『出戻り』です」
「君は、編集者志望で入社したんだろ?」
「確かにそうなのですが……私はもう、編集者としての実績は多分に残すことが出来ました。悔いはありません。……子ども達のことを考えたら、総務に戻るのが最良なのです」
(善い父親になったな……)
「そうすると、私が、君と一緒に仕事が出来るのは……あと、どのくらいなんだ?」
「長くとも今年度末まで、でしょうか」
「あと、4ヵ月くらいか……どんなに急いでも、2作が限界だろうな」
とは言ったが、他社の仕事もあるため『最後の一作』で終わるかもしれない。私の画法では、絵を描くのに、とても時間がかかる。
「どうぞ、よろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
いつも通りの恭しい所作で礼をしてくれた彼に、私も改まって頭を下げる。
 彼との、最後の仕事……。心して書かなければ。

 挨拶を交わした直後、インターホンが鳴った。家主たる私が、モニターを見に行く。
「誰だ?」
映っているのは、あの稀一少年である。私の住所を知っている彼が、いよいよ押しかけてきたらしい。
「何をしに来たんだ……?」
私はボタンを押して応対し、太々しい泣き顔で「匿ってほしい」などと言う彼を、ひとまず家の中に招き入れることにした。
「どなたですか?」
「私のペンフレンドだよ」
「ペンフレンド……?」
「とりあえず入れてやろう」
私は、彼に来客が小学生であることだけは告げた。

 彼と共に、玄関で稀一少年を迎え入れる。
 少年は、施設で長年使われているのであろう、すっかり くたびれた焦茶色のランドセルを背負って、学校指定の黄色い帽子を、被らずに ぐしゃぐしゃにして手に持っている。(つばが、バキバキに折れている。)
「どうして泣いているんだ?誰かと喧嘩でもしたのかい?」
少年は私の問いには答えず、岩くんの姿を見るなり「前のおっちゃんと違う……」と呟いた。
 岩くんは、涼やかに「こんにちは」と挨拶をした。
「こんにちは。……おっちゃん、誰?」
「私の友達だよ」
質問には私が答える。
「前の、狼に齧られた おっちゃんは?」
「仕事に行ってるよ」
「ふーん」
少年は靴を脱ぎ、勝手知ったる様子で2階に上がっていく。
「悠介さん、犬にでも咬まれたんですか?」
「いや。こっちの腕が短い理由を訊かれて……何故か『狼に食べられた』と答えたんだ」
私は「こっち」と言うところで軽く左手を挙げてから、腕を組んだ。
「……なかなか、独創的な嘘ですね」
「それでも、彼は何の疑いもなく信じているんだ。私も、とりあえず話を合わせている」
「……わかりました」

 来客があったためか「そろそろ帰る」と言い出した彼に、私は「あの少年が帰るまでは居てくれ」と頼んだ。
 再び、2人で2階に上がる。

 来客である稀一少年に、とりあえず緑茶と茶菓子を出す。
 少年は、茶菓子に出した煎餅をバリバリと食べながら、小学校に対する不満をぶちまけ続ける。
「学校おもんない!!」
「そうなのかい?」
「先公けったくそ悪い!!」
袋入りの煎餅を叩き割る。
「どこで覚えたんだ、そんな言葉……」
「あいつら、僕が6年から入ったからって、馬鹿にしとるんやで!!」
 彼は、今のところ無戸籍のままだが、学齢簿にだけは情報が記載されている。
 一日も早い戸籍の発行が望まれるが、現段階では、彼が「日本人であること」を立証する術がない。実母と推測される女性を探し出してDNA鑑定でもしない限り、彼が「日本人の母親から生まれた子」であることを立証することが出来ない。(彼を育てた「祖母」の娘が、どこかに居るはずだが、まだ見つかっていない。)
「僕らには『保護者』がおらんから、いじめとか遭っても、対応が『適当』やねん!モンスターペアレントの子どものほうが、守られてるねん!!」
複数形で話すということは、彼の他にも、保護者の居ない児童が居るのだろう。
(その事で、泣いていたのか……?)
「君は、学校で いじめられているのかい?」
「僕やない。同じ施設から通ってる子……」
「同じ学年なのかい?」
「その子は3年生……」
 小学生の子を持つ岩くんは、黙って傾聴している。
「僕、もう、あまりにも腹立たしいから、職員室で墨汁撒いたってん!!バケツで!!」
「……すごく叱られたんじゃないかい?」
問うたのは岩くんである。
「うん。今日、校長室で、めっさ怒られた」
「だろうね……」
岩くんは苦笑する。
「アホやと思うわ。あいつら。……自分らが悪いんやん」
(教員達に鉄槌を下してきたのか、このチビ助は……)
 勇敢といえば、勇敢である。しかし、私が保護者や教員なら、やはり叱る。誉めるわけにはいかない。器物損壊は犯罪だ。
「先生達が、いじめられている子を助けないことに、腹を立てたのは解るけれども……だからといって、職員室に悪戯をしてはいけないよ。他の子達のノートやプリントが、真っ黒になってしまったんじゃないかい?」
「それで、めっさ怒られた」
「ほら見ろ……。君の悪戯でノートが台無しになった子は、どう思うだろうね?」
「知らん!」
(図々しい小僧だな……!)
「その、3年生の子は、君がしたことについて、何か言っていたかい?」
「まだ知らんと思う。『学校行きたくない』って、ずっと休んでる。墨汁撒く前から」
「なるほどねぇ……」
少年は、ずっと煎餅を食べている。
「せやから……僕、もう、その子と一緒に、おばちゃんの家で勉強しようかと思うねん!!あんなとこ通うん、アホらしい!!」
(逞しいな……)
私としては、不登校児への「居場所」の提供に、協力してやりたいところだが。
「……放課後なら、大歓迎だよ」
「放課後だけなん!?」
「すまない。私も忙しいのだよ……家で仕事をしているからね」
「毎日?」
「もちろん、休む日はあるよ」
「何曜日?」
「それは決めていないんだ……」


 稀一少年が暮らす児童養護施設は、夕食の時間帯が決まっている。それを知っていた私は、2人を それぞれの住まいまで、車で送ることにした。

 施設の前で少年を降ろした後、岩くんの自宅に向かうために発進した直後、彼が、後部座席で静かに笑いながら言った。
「彼……まるで、小さな善治さんですね」
「なんてことを言うんだ!!」
予期せぬ発言に、私は前方を向いたまま、思わず大声を出して笑った。
 しかし、思い返してみると……確かに、あの少年は、子どもの頃の弟に そっくりだ。話し方も、過剰なまでの正義感も。
 弟は、小学6年の時、音楽的なセンスに乏しい児童を執拗に愚弄していた教諭に腹を立て、無人の音楽室に忍び込んで楽器を破壊しまくった上に、室内を水浸しにしてきたことがある……。
 成人してからも、自身の失聴については何も言わず、家族や同僚を侮辱された時にだけ、離職を覚悟で上司や経営者を殴ってきた奴である。
「先生にも、よく似ている気がします」
「私に!?どこがだよ!」
「まるで、親子のようでしたよ」
「どこが、だ!!年齢差だけだろ!!?」
彼は、クスクス笑うばかりで、答えなかった。


次のエピソード
【11.新しい風】
https://note.com/mokkei4486/n/n4f267f1a8683

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