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小説 「吉岡奇譚」 7

7.自由な暮らし

 その日は、朝の散歩だけでは物足りず、午睡から覚めたら、私は坂元くんに留守を任せて外出した。街中を散策しながら、立ち寄った書店で何冊かの新書を購入した。
 とても天気が良いので、屋外で ゆっくり読書を楽しみたいところだ。
 私は、晴れの日でも人気ひとけが少ない場所を、いくつも知っている。
 今日は、坂元くんが「秘密の場所」と呼んでいる、とある日本庭園の奥深くに行ってみることにした。(彼に その場所を教えたのは私である。)

 いくら「秘密の場所」とはいえ、公共の場であるから、当然 誰かに出くわすこともある。
 今日も、先客が居た。
(おや……?)
竹製の長椅子に座り、リュックを背負ったまま、革製のカバーが付いた文庫本を読んでいる彼女には、見覚えがある。
「こんにちは。また会ったね」
まさか人に話しかけられるとは思っていなかったのだろう。彼女は、黙って私の姿を見上げている。
「私のことを、憶えているかな?」
彼女は、何も言わない。

 彼女は、あの夜 玄ちゃんが ひったくり犯から奪い返したトートバッグから、タブレット端末のようなものを取り出した。そして、付属のタッチペンで、画面に何かを書き始めた。
 それは、タブレット端末ではなく、筆談具だった。タッチペンで画面に書き込んだ文字や絵は、ボタンを押せば瞬時に消える。何度でも、何かを記入することが出来る。(私には聴覚障害者の弟が居るので、似たようなものを以前にも見たことがある。)
 彼女は、書き終わった文章を私に見せてくれた。
【私は、声を出すことが できません。
 申し訳ありませんが、どこでお会いした方なのか、思い出せません。】
「そうかい……」
思い出せないのは、無理もない。
「君が、その鞄をひったくられた時、奪い返したのは私の友人なんだ。私は、あの時、あそこに一緒に居たんだ」
彼女は、何も言わなかったが、お辞儀だけはしてくれた。
「ご無事で何より」
 やがて、彼女は筆談具に何かを書いて見せてくれた。
【ありがとうございました。】
「とんでもない」
私は、ただ あの場に居合わせただけで、何もしていないのだ。

「お邪魔でなければ、隣に座ってもいいかい?私も、この場所で読みたい本があったんだ」
私が書店名の入った紙袋を見せると、彼女は「どうぞ」と言わんばかりに、長椅子の空いている場所を手で示してくれた。
「ありがとう」
私は、彼女の隣に座った。
「君は、何を読んでいるんだい?」
彼女が表紙を見せてくれた文庫本は、私が友人に原案を提供した小説だった。
「あぁ!それ、面白いよね!私の家にも、全巻あるよ」
私は、書き手ではなく一読者のふりをする。原案提供者の存在は『トップシークレット』なのだ。
「私は今日、これを買ったんだ」
私は紙袋を開けて、買ったばかりの新書を取り出し、ひとまず彼女に見せた後、その中の一冊を開いた。
「ここは……静かで良いよね」
彼女は頷いてくれた。

 私達は、大きな池のほうを向いて座ったまま、しばらく黙って読書を楽しんでいた。小さな東屋が、まるで図書館の一角のようだった。

 30分近く経った頃、私は彼女に質問を投げかけた。
「君は、学生さん?」
彼女は、読みかけの文庫本に指を挟んで持ったまま、脚の上に置いた筆談具に文字を書いた。
【いいえ】
平日の日中に、自由に出歩いているくらいだから、大学生かと思ったのだが、違ったようだ。
【大学は辞めました。今はフリーターです】
「今日は、お休み?」
【はい】
「この近くに住んでいるのかい?」
正論を言えば、知り合ったばかりの若い女性にプライベートのことを根掘り葉掘り訊くべきではないが、私は、玄ちゃんが非常に気にかけていた彼女のことが、やはり少なからず気になっていた。
 それに、私が関与している小説のファンでもあるのだ。善き友人になれるかもしれない。
【ゲストハウスに滞在しています】
「へぇ。そんな所に?……アルバイトをしながら、長期滞在?」
【はい】
「なかなか面白い選択だね。バックパッカーみたいだ」
私には、それは ごく若いうちにしか出来ない、自由な冒険旅行に思えた。
「一人旅かい?」
【一人です】
「この街には、いつまで居るんだい?」
【決めていません】
「自由な暮らしだね。……なんだか羨ましいな」
彼女は、画面の文字を消したきり、ペンを止めてしまった。
「ごめんよ。読書の邪魔をしたね」
私は、読んでいた本に付属の栞を挟んでから、それを紙袋に入れた。
 そして、自分のリュックから名刺入れを取り出し、中の一枚を彼女に渡した。私のペンネームと連絡先が書いてある。
「何かのご縁だから……」
彼女は、きちんと両手で受け取ってくれた。
「気が向いたら、書店で私の絵本を探してみてくれ。買わなくてもいいから」
彼女は、返答に困ってしまったのか、ただ名刺をまじまじと見ている。
「私は、そろそろ帰るよ」
私が立ち上がると、彼女も立ち上がった。軽く手を振る私に、彼女は礼を返してくれた。
(いつか、また会えたら……嬉しいな)


 坂元くんが待つ家に戻ると、彼は台所でイワシと思われる小さな魚を何匹も捌いていた。まな板の側には、トマト缶が並んでいる。
「先生、おかえりなさい」
「ただいま」
「また、手紙が来てましたよ」
「稀一くんかい?」
「そうです。……お友達ですか?」
「そうだよ。ペンフレンドだ」
「今どき珍しいですね」
「彼は携帯電話を持っていないからね」
「……おいくつの方ですか?」
「小学校の6年生だよ」
「なるほど……」

 3階のアトリエで稀一少年からの手紙を読んだら、私は久方ぶりにクロッキー帳を開いた。そこに、断片的に浮かんだ絵本のアイデアを一通り記入したら、次は買ったばかりの新書の続きを読むことにした。
 担当編集者が変わってしまったとはいえ、私の本業は絵本作家である。日々、名刺を配り歩くからには、その名で書き続ける責務がある。

 夕食を終え、坂元くんが退勤する時間になっても、夫はまだ帰らない。いつものことである。
 坂元くんの退勤後、何気なく自分のスマートフォンを見ると、見慣れない番号からのショートメールが複数入っていた。
 開くと、今日、庭園で名刺を渡した彼女からのメールだった。早速、私の著書を探してくれた上に「一冊買った」というのだ。(実に ありがたい。)そのことと、先日ひったくり犯から鞄を取り返してくれた彼に改めてよろしく伝えてほしいという旨が記載されていた。
 嬉しい報せに、思わず笑みが溢れた。
 また、用件とは無関係なことだが、私は「藤森」という彼女の姓に、ある種の親近感を覚えていた。同じ名前の研究者の著書が、我が家に複数あるからである。
 藤森恭一郎という名の彼は、専門家やファンの間ではよく知られた恐竜の研究者だが、6〜7年前に心疾患で急死したと報じられた。確か、40代前半だったはずだ。(坂元くんのお父様も、そのくらいの年齢の時に心筋梗塞で亡くなったと聴いている。)
 私は、若い頃に無茶をしすぎたので、この国の平均寿命までは生きられないだろう……とは、漠然と思っているが、それでも、いつの間にか40代後半である。
 この、しぶとい心臓も、ある日突然止まってしまうようなことが、あるかもしれない……。

 私は、著書を買っていただいたことに対する礼と、彼への伝言を承った旨を送信した。 
 やがて、彼女のほうから「絵本の感想を伝えたいけれど、ショートメールでは到底伝えきれないから、差し支えなければメールアドレスかLINEを教えてほしい」という依頼があった。私も、彼女の風変わりな暮らしぶりに興味があるし、この ご縁は大切にしたいと感じていたので、LINEの交換に応じた。
 彼女は、私の絵本に恐竜が登場するためか、可愛らしい恐竜のスタンプと共に、絵本の感想を丁寧な長文で伝えてくれた。


 やがて、インターホンが鳴った。夫が帰ってきたのだ。彼が無事に帰ってくると、私は とても安心する。
 とはいえ、彼は仕事疲れや持病による目眩でフラフラになって帰ってきて、玄関で寝転がったまま朝まで眠ってしまいそうになる日が多々あるので、毎回必ず1階に降りて出迎えることにしている。
「おかえり」
「ただいまー……」
やはり、彼は今日も玄関で ひっくり返っている。
「お疲れ様。洗濯物をもらっていくよ。……落ち着いたら、まずは風呂に入るだろ?」
「入る……」
私が、彼の通勤用リュックを持って、洗濯機のある脱衣所に行こうとした時、彼は、呼び止めるかのように「あ!」と言った。
「どうした?」
「俺、今日……帰りに、駅で玄さんを見たよ」
「玄ちゃんを?どこの駅だい?」
彼は、のろのろと起き上がりながら駅名を答えた。毎日、電車を乗り換える駅の名である。
「何か……ヤバそうな雰囲気だった」
彼も、玄ちゃんの持病のことは知っている。
「ヤバそう?」
「すげぇ真剣な顔で、猛ダッシュしてた……声かけられるような感じでもなかった」
(また、何かを聴いて走りだしたのか……?)
「よっぽど急いでたのかな……。でも、何か、ただならぬ雰囲気だった。すげぇ怖い顔して、何か……ぶつぶつ言ってた気がする。やっぱり、何かあったんじゃねえかな……」
「……私から、連絡を取ってみるよ」

 夫が風呂に入っている間に、私は玄ちゃんにLINEで連絡を取った。今日、例の彼女と再会できて連絡先を交換したことを伝えると、彼は「お元気なら良かった!」とだけ返信を寄越した。
 夫の目撃証言に関する話は、しなかった。彼からは、脈絡のある返信があれば、ひとまず安心なのだ。(具合が悪ければ、彼は「会話」を成立させることが出来ない。一方的に【番組】の内容を連続で送ってくる。)
 やがて、玄ちゃんから「あの子に、また会いたい」とメッセージが来た。私が返信を考えていると「まだ『痛い』みたいだから、心配」と続いた。
(どういうことだ……?)
 少なからず疑問を抱いたが、私は「明日また連絡する。おやすみ」とだけ送って、会話を終わらせた。


次のエピソード
【8.彼亡き後の】
https://note.com/mokkei4486/n/n760768261e34

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