小説 「吉岡奇譚」 13
13.罵詈雑言
今日は朝から曇天である。頭や腰が痛む。朝の散歩は短時間で切り上げ、帰宅しても机に向かう気が起きず、特に何もしないまま時間を空費し、ハウスキーパー達を迎え入れたら、担当編集者の来訪を待つ。
約束の時間より30分ほど遅れて、彼がやってきた。私は、今朝の空を見た瞬間から、そんな気はしていた。彼も、曇りの日は古傷が痛むのだ。普段通りの速さで歩けなかったり、電車を逃してしまったりして、約束の時間に遅れがちになる。
彼は、到着するなり洗面所で痛み止めを飲み、打合せの前に少し休みたいと言った。もちろん私は了承した。
和室の畳の上に坐禅を組むかのような姿勢で座り、些か苦しそうに息をしている彼に、私はペットボトル入りのスポーツドリンクを手渡した。夫が好きで常備している飲料である。
「あ、開けようか?」
「お願いします……」
渡してしまってから、彼の腕の痺れのことに思い至り、一旦返してもらってキャップを開けた。
改めて受け取った それを、彼はぐびぐびと良い音を出して半分近く飲んだ。そして、大きく息をついた。
「今日は、痛むだろ……?」
「はい……」
彼の身体には、大きな古傷が いくつもある。激しい運動をした翌日や、今日のような曇りの日には、折れてから30年近く経つ頸椎が、未だに痛みや痺れを呈するという。
彼は、一年を通じて、頸が隠れる服装を好む。スーツやジャージを着ていて丸見えのこともあるが、基本的には衣服で頸の傷を隠している。最大の弱点である頸部を、保護する目的もあるのだろう。
「打合せなんか、キャンセルしてくれても良いんだよ。こういう日は」
「このような天気だからこそ、社屋に居たくないのです……」
「どういうことだよ」
「座っているだけで、何も出来ない姿など……同僚に、見せたくはありません」
「君の身体のことは、みんな知っているんだろ?」
「知っているからこそ、嫌味を言うような人も……中には居ます」
「放っておけばいいよ、そんなカス共は」
「……ほとんど動けない私のほうが退職して、健康な妻が復職することを望む社員が……少なからず居るのです」
「暇人共め。よその家庭事情なんか、放っておけばいいだろうに……くだらない」
彼は、何も言わず、畳に視線を落とす。
「そうだ。例の新人さんと引合わせたいのだけれども……いいかい?」
「はい」
「じゃあ、呼んでくるよ。座っててくれ」
「恐れ入ります……」
藤森ちゃんを和室に呼び、岩くんと引合わせる。
「彼が、私の担当編集者だよ」
「岩下といいます。よろしくお願いします」
痛み止めが効いてきたらしい彼は、立ち上がって藤森ちゃんに名刺を手渡す。彼女は、坂元くんの時と同じように、筆談具を見せながら何度もお辞儀をする。
「この人は、たくさん食べるからね」
【料理がんばります】
「楽しみにしています」
引合わせが終わったら、私と彼は応接室に移動して仕事の話をする。
物語の骨子と、主役となる恐竜が決まったことを報告し、その生態を軽く説明する。
「私は、卵を守る お父さん恐竜の話を書きたいんだ」
「……素敵なお話に、なりそうですね」
話が佳境に入った頃に、夫の勤務先から着信があった。
「何だよ、こんな時に……」
岩くんに断って退室してから、電話に出る。
夫の体調が芳しくないそうで、社長から「迎えに来てやってほしい」と依頼された。
私は、それを坂元くんにお願いした。(このようなことは、これまでにも複数回あった。)
インターホンが鳴り、私と岩くんは打合わせを切り上げる。玄関に様子を見に行く。
坂元くんの肩を借りながら、夫が帰ってきた。靴を履いたまま、ひとまず玄関に腰を降ろす。息が荒い。
「あいつ……マジ、ぶっ殺す!!!」
暴言を吐きながら、靴をしまう棚の扉を殴る。棚の上に飾ってある「赤べこ」の、頭が揺れる。
「やめてくれよ。壊れるだろ……」
私がそう言っても、夫は応えない。上体をふらふら揺らしながら、文字に書きようのない唸り声をあげている。
「悠介さん、落ち着いてください……」
坂元くんが、まだ何かを殴りたそうにしている夫の右手を掴み、膝の上に置かせる。宥めすかすように、背中をさする。
「あんなん、もうクビだろ!!?……解雇だ!!」
私は、久しぶりに癇癪を起こしている夫の、眼を確認する。……案の定、眼振がある。視線が合わない。
「何かあったのか?」
やはり応えない夫は、鼻に皺を寄せて、まるでファンタジー映画で見た狼男のような顔貌である。掴まれていない左腕で、また靴の棚を殴ろうとする。坂元くんに止められる。後ろから抱きかかえられるような形になって、諦めたのか、暴れるのをやめた。
「やめましょう、悠介さん。藤森さんが怖がります……」
彼女の名を聴いて冷静さを取り戻したのか、あるいは怒りのピークを過ぎたのか、次第に呼吸が整ってきた。
「大丈夫か?何があった?」
「どうやら……ネットの掲示板に、社長や他の社員の実名を晒して、誹謗中傷を書き込んだ従業員が居るようで……」
私の問いに答えたのは、坂元くんである。
「本当に在籍中の人間なのか?どうして、そんなことが分かる?」
「読んでみろよ……!!」
「わかった。後で見せてもらうよ。だから、まずは落ち着け……」
誹謗中傷に憤りを感じるのは解るが、取り乱しすぎだ。やはり、体調が良くないのだろう。
夫を、どうにか宥めて風呂に入らせた後、5人で昼食を摂ってから、私は例の掲示板を確認した。坂元くんや岩くんも、横から画面を覗いている。
インターネット上の匿名掲示板に、社長や私の夫を初めとした従業員の身体的特徴や病態に関する中傷と、おそらくは事実無根の「従業員同士の不倫関係」や「パワハラ」「セクハラ」に関する記述、特定の従業員の「盗撮写真」や、従業員達のSNSアカウントへのリンクを貼った上での誹謗中傷など、極めて悪質な内容である。
「確かに、在籍中でなければ、更衣室で盗撮は出来ないよな……」
「これ、犯罪でしょ……」
「……懲戒解雇狙いでしょうか?」
「かもしれないね……。しかし、あの社長は、そこまでの執拗な引止めをする人ではないよ。こんな汚い手を使わなくとも……あっさりと辞められる環境であるはずだ」
「俺、これ犯人判ったらボッコボコにしてやりてぇ!!」
「まぁ……これだけ悪質なら、削除要請もすぐに通るだろ。業者に頼めば、犯人の特定もすぐに出来るだろうし……。プロに任せればいい。おまえが此処で怒り狂っていても、どうにもならない……」
「それの所為で、何人バイトが辞めたと思ってるんだ!!?」
確かに、盗撮されるかもしれないような職場には、通いたくないだろう……。
「腹立たしいのは解るが、こんなのに構うな。冷静になれ。犯人探しはプロに任せて、犯人への懲罰は社長に任せるんだ。……それから、おまえは一言たりとも書き込むなよ。『炎上』して、アクセス数が伸びたら、犯人の思う壷だ。相手を刺激しちゃならない。……断固として無視しろ。何か一言でも書いたら、おまえまで『書き込み犯』の一人になる」
夫の眉間からは皺が消えない。再び、鼻にも皺が寄り始める。
夫は生まれながらの癇癪持ちで、怒りの感情を抑えるのが苦手だ。
「……俺、煙草吸ってくる」
(藤森ちゃんの前では吸わないんじゃなかったのか?)
とはいえ、それで気持ちが落ち着くのなら、今はそれでいい。
夫は、約束どおりベランダに出て、何本も続けて吸っている。藤森ちゃんは、その姿を、ずっと眺めている。
「ごめんよ、お騒がせして……」
【悪いのは犯人です。】
「あぁ。もちろん、そうだよ」
私も、株主として看過は出来ない。
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【14.「お疲れ様」】
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