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小説 「Company Crusher」 4
4.自由を手にした日
彼は、医者の息子でした。しかし、彼自身は「医者になろう」とは少しも考えていませんでした。
彼は、医学よりも伝統工芸に興味がありました。小学生の頃から ずっと、鉄を打って包丁を造る、職人になりたかったのです。
そして、彼には弟と妹が居たので、父親が経営する病院を継ぐのは、自分でなくとも良いだろうと考えていました。
しかし、両親は それを認めませんでした。「兄妹3人、全員を医者にする!」という夢と計画を、彼らに押しつけました。
彼は【医学部 合格】を目指して猛勉強することを、義務付けられました。小学校だけは公立学校でしたが、中学からは、父親が選んだ私立の進学校に通わされ、学習塾や予備校にも長く通いました。(弟達も、同じです。)
それでも、彼は包丁のことを諦めませんでした。手術の道具について勉強するふりをして、包丁のことも たくさん調べました。
両親を黙らせるために医師免許だけは取って、医者や研究者には ならず職人の下に弟子入りするのも、選択肢としては「あり」だと考えていました。
赤く燃える鉄に向き合い続ける職人は、身体が何よりの資本です。大きな怪我や熱中症で、死にかけるかもしれません。自分の身体の守り方を学んでから職人の世界に飛び込むのも、悪くない進路だと思いました。
初めての大学受験には、落ちました。しかし、少しも悔しくは ありませんでした。
両親は「浪人してでも医学部に入れ!」と憤慨し、彼には一人暮らしを許しませんでした。「遊ぶ時間」を作らせないためです。
彼はアルバイトさえ、させてもらえませんでした。勉強の妨げになる『悪い仲間』と知り合うきっかけを作らせないためです。家と予備校での「受験勉強」以外のことは、ほとんど何も許されない暮らしでした。家事の手伝いすら、させてもらえません。
2度目も、落ちました。手を抜いたわけではありません。彼は本気で挑みましたが、受からなかったのです。
父親は激怒しました。
「あんなに学費を出してやったのに!!」
「ペーパーテストに合格することさえ出来ないのか!?」
「長男のくせに!情けない!!」
父親が選んだ大学は、日本の医学部としては『最底辺』のところでした。(それでも、医学部です。そうそう簡単には入れません。)
「あそこにさえ入れない奴に、うちの院長は無理だ!!」
父親は、絶望と落胆を露わにしました。
後継者候補は、他にも居るのです。
医師免許なんか諦めて、すぐにでも職人を目指したほうが良いかもしれません。
しかし、彼の 囚人のような暮らしは終わりませんでした。3度目の受験に向けて、再び【勉強漬け】の日々でした。「あの予備校が良くなかったに違いない」ということで、彼には家庭教師が付きました。
毎日毎日、家庭教師が来ても来なくても、自分の部屋で机に向かって、問題集を解いたり、医学書を読んだりしなければなりません。母親が、頻繁に様子を見に来るのです。サボっているところを見られたら、携帯電話を返してもらえなくなります。
彼の携帯電話は、毎朝 母親に取り上げられていました。家庭教師や予備校からの電話があったら、母親が出ていました。
そして、彼の部屋には電話線が引かれていませんでした。(当時、パソコンをインターネットに繋ぐには、電話線が不可欠でした。)
外部と連絡を取ることが出来ず、一人での外出も ほとんど許されません。弟達は学校や塾に通いながら自由に出歩いているのに、彼だけは【軟禁】されていました。(それは、試験に落ち続けた罰でした。)
それでも、たまには絵を描いたり、詩を書いたりして、気分転換をしました。
しかし、彼の部屋にある全てのノートは、両親がチェックするのです。どれだけ勉強が進んだか、どれくらい正解できているか、ほとんど毎日 確認するのです。気分転換用のノートや日記帳でさえ、全て読まれてしまいます。
彼は、古文や漢文の勉強に見せかけて、架空の書物や作家について、ノートに詳しく書き連ねるようになりました。少なくとも母親は、それが「架空のもの」とは気付きませんでした。
受験とは全く無関係なオリジナルの物語を考えるのが、すごく楽しくなりました。家にある本で、世界中の古代文明のことを たくさん調べて、架空の考古学者の生涯と研究テーマについて、ひたすらノートに書き起こしました。その学者が研究している古文書の、中身も考えました。
しかし、やがて「他の教科も やりなさい!」と叱られる羽目になりました。
来る日も来る日も、勉強と創作ばかりしていたら、どこで何をしていても、空中に文字が浮かんで見えるようになりました。はっきりと読める時もあれば、ごちゃごちゃと絡み合って、読めない時もありました。
特に、父親の周りには、いつも真っ黒な文字の塊が まとわり付いていました。
母親の周りには、子ども達の名前や、彼らの成績に関する悩みや喜びが、文字になって浮かんでいます。
弟や妹の周りには、漫画やテレビ番組の中身(台詞)のようなものが、ふわふわ浮かんで見えました。
父親は、文字が多ければ多いほど機嫌が悪いことが判りました。そして、それは月曜日が いちばん多くて、濃いのです。火曜日以降は、少しずつスッキリしていきます。
金曜日あたりになると、ほぐれて、粗方読めるようになります。薬の名前や、数字やアルファベットの羅列、知らない人の名前が たくさん見えました。神話に出てくる神様の名前や、仏像の名前、お経の一節と思われるものも混じっていました。
彼は、文字のことを誰にも言いませんでした。「今日は何が見えるだろう?」というのが、ささやかな楽しみでもあったからです。
それは、彼だけの秘密でした。
家庭教師は、毎回 同じ男性でした。過去に数十人の浪人生を医学部合格に導いた実力者です。
その日、家庭教師は勉強部屋に入って いつもの椅子に座るなり、言いました。
「飯村くん。前回 渡した課題を、提出してくれるかな」
「はい」
彼は、提出しなければならない課題だけは、抜かりなく やっていました。
しかし……その日は、家庭教師の反応が、いつもと違いました。受け取った冊子をパラパラとめくりながら、首を傾げています。
「見たことない漢字だ……むしろ『存在しない漢字』ではないかな?」
それが本当なら、小学生がするようなミスです。家庭教師は眉をひそめます。
「どうしたんだ、君らしくもない……。国語がいちばん得意だろう?」
しかし、何について指摘されているのか、彼には解りませんでした。
理科や歴史の答案でも、漢字や ひらがなの形そのものを間違えている箇所が、たくさんあると言われました。
「内容以前の問題だ。……どうしてしまったんだ?体調が悪いんじゃないか?」
家庭教師は、彼に「ノートに『顕微鏡』と書いてみなさい」と指示しました。
彼は、言われた文字を、正しく書いているつもりでした。
しかし、家庭教師は首を横に振ります。
電子辞書を取り出すように言い、彼は素直に従いました。
画面に表示されたのは、彼が書くのとは違う形の文字ばかりです。
「気味が悪い」と、感じました。
彼には、辞書が間違っているように思えてなりませんでした。
「電子辞書も、バグるんですね……」
「違う。君の記憶が、間違ってるんだ……」
その後、いくつかの熟語で試しましたが、どれも同じです。
(そんなはずは……!)
彼は、納得が いきませんでした。
家庭教師は、間違いだらけの冊子を「お母さんに見せる」と言いました。
彼は嫌がりましたが、家庭教師は「君の体調が心配だ」と言って、譲りません。
冊子を見た母親は、怒り出しました。
「勉強が嫌になって、ふざけ始めたんでしょう!!?」
「違う!僕は、ふざけてなんかいない!!」
反論すると、母親の周りに、文字が湧き上がりました。「玄一郎」という、彼の名が浮かんだ後、それはビリビリに破れて散っていきました。
「お母さん……。少し、彼を休ませてあげないと……。ノイローゼになってるんじゃないですか?」
家庭教師が、口を挟みました。
「主人は精神科医です!息子が本当にノイローゼなら、すぐに分かります!!」
「精神のお医者様なら、尚のこと……」
家庭教師は、冊子を父親に見せるべきだと提言しました。
「これを お見せして、危険性を知らせないと……」
母親は、家庭教師に文句を言いました。
「危険性なんて、ありませんよ!ただ、呆けたふりをして、やりたくない事から逃げてるんです!」
母親の周りでは、教科の名前が次々に、現れては崩れていきました。
最後には『愚』と『怠』という文字だけが、残りました。
彼の父親は、精神科病院の院長です。
その日も、文字だらけで帰ってきました。リビングでソファーに座り込み、家庭教師が残していった冊子に目を通すと、ただ「疲れてるんじゃないのか?」とだけ言いました。
母親は、父親が言う事なら、信じます。
「一日くらい休んだって、全てを忘れやしないだろう……」
父親自身も、疲れているようでした。
翌日、彼には数年ぶりの「休日」が与えられました。彼は、DVDをたくさん借りてきて、一日中 映画を観ました。
時を忘れて、夢中になりました。
しかし、休み明けには、自分でも はっきり分かるほど、文字を忘れていました。
そして、日に日に正しい文字を書くことが出来なくなり、やがては本を読み解くことが出来なくなりました。
いつしか、紙に並んでいる文字も、空気中に浮かんでいる文字も、その全てが、自分を【呪う】ために描かれた 気味の悪い紋様に見えるようになりました。
それを意に介したら、どこかに隠れている術者に、身体を乗っ取られてしまうように感じました。
彼は、自分の身体を守るため、全ての文字を無視することに決めました。
読み解いたら、呪いがかかるのです。
呪いの書物の内容が、解れば解るほど、寿命が縮むのです。
読んではいけません。
そんな危険なものであるにも関わらず「読みなさい!」「勉強しなさい!」と言い続ける母親は、術者の手先に違いありません。ひょっとすると、母親に そっくりな別人かもしれません。
やがて、文字を忌避し、勉強をしなくなった罰なのか……偽者の母親は、彼のお皿にだけ、食べ物に そっくりな形をした異物を盛りつけるようになりました。それは、味も匂いもしないし、食べるたびに、ものすごく お腹が痛くなるのです。……きっと、それらも呪いの道具です。
文字の危険性に気付いた彼に、別の方法で毒を取り込ませて殺すためでしょう。
他の家族は、同じ形の物を平気で食べていますが、そちらは無害な「本物」のようです。彼一人だけが、毎日お腹を壊しています。
「僕は、こいつらに殺される……!」
そう確信した彼は、夜中に、勉強部屋の窓から逃げました。
部屋は3階でしたが、構わず裸足で飛び降りました。