小説 「僕と彼らの裏話」 37
37.大切な「初心」
約束の日が来て、僕は勇んで車を走らせる。
無事に空港で彼女を出迎えたら、どこにも寄らずに新居へ帰る。
僕が一歩先に玄関の中へ入り、舞台俳優さながらに両手を広げ、念願の一言を口にした。
「おかえり、千秋!」
「……ただいま」
彼女は、クスクス笑いながら応じてくれた。
初めて名前で呼んだことについては、何も言われなかった。
室内用の車椅子は、明日 引越し業者が持ってくるので、今日は「外用」のタイヤを拭いて対応する。彼女には一旦降りてもらい、僕は雑巾とバケツを持ってきて、入念にタイヤを拭きあげる。
納得のいくところまで拭けたら、自分が使った道具と、彼女が とうに外して床に置いていた お飾り程度の義足を、早々に片付ける。
玄関の床に座って待機していた彼女が再び車椅子に乗り込む瞬間、僕も肩や腕を貸して少しだけ手伝う。
彼女が座面に落ち着いた後、義足を取り去って中身が無くなった長ズボンを、どうするか……脚元に居る僕は、しばし迷った。
「これ、普段どうしてる?」
「基本……家の中なら、年じゅう短パン穿くよ」
冬場、寒ければ その上から巻きスカートを足すという。
今は、長いズボンの裾を、タイヤに巻き込まないよう適当に脚周りに折り込んだら、ひとまず それで「完了」だ。
彼女は「せっかくの綺麗な床を汚したくない」と言って、新居だというのに『探検』を控え、洗面所での用が済んだら まっすぐリビングに向かった。テレビを つけ、北海道とは全く違う番組やコマーシャルが映っているのを見て、一人で歓声をあげている。
無事に この日を迎えたことが【夢】のようで、僕は茫然と彼女の後ろ姿を眺めていた。
ただ同じ教室の中に居られるだけで満足だった人が、今こうして僕の目の前に居て……今日から、共に暮らすのだ。それが、不思議で堪らない。
考えれば考えるほど、信じられない。【奇跡】と言えばいいのか。あるいは【神秘】と言おうか……。
彼女と【生きて再会できた喜び】というのは、何物にも代え難い。それについて想うたび、僕は、何度でも打ち震えてしまう。
「稔、疲れたんでない?」
彼女が そう言いながら振り返ってくれた時、僕はリビングの入り口付近に突っ立ったまま震えていた。伝えきれない喜びと、無事に帰り着いた安心感のためか……気付けば泣き出していた。
それを見た彼女は、僕が「いつもの発作」を起こしていると思ったようで、至って真面目な顔で寄ってきて、僕の空いているほうの手を、しっかりと握ってくれた。
僕は、無様にも鼻を垂らして泣いているし、拭えるものが手近に無くて、仕方なく利き手の甲で それを受け止めている。そんな姿は、できれば見せたくはなかったけれど……もう遅い。
「今日、頑張ってくれたもんね。……ありがとう」
僕は いよいよ何も言えなくなって、子どものような嗚咽を漏らしながら、その場に座り込むしかなかった。発作ではないけれど、高ぶった感情を、どうにもできなかった。何にせよ、息が苦しいことにも違いはない。
「深呼吸、できる?」
彼女のほうは、ずっとパニック発作だと思っているのだろう。
「タオル持ってこようか?」
僕は頷きで応え、彼女の手を離す。
置き場所が分かるかどうか、少し心配していたけれど、彼女はちゃんと洗濯済みのフェイスタオルを見つけてきた。発作時の僕が それを何に使うのか よく知っている彼女は、光をよく遮る厚手の黒いものを選んでくれた。
それを、情けない声で「ありがとう……」と言いながら受け取って、目に押し当てる。
「ごめん……初日から、こんな調子で……」
「なんもさ」
僕は、彼女の前で「頼もしいところ」なんてものを見せられた例が無い。
いつだって、無様だ。
落ち着いてきたら顔を洗って、湿った黒いタオルを首にかけたまま、食卓横の座布団に座る。(この食卓と座布団は、明日には札幌から運ばれてくる大きなテーブルと椅子に置き換える。)
彼女は、台所で新しい冷蔵庫を開けて中を見ている。僕が前の家から持ってきたピッチャーに茶を入れて 冷やしてあるのだけれど、彼女がそれを運ぶのは……かなり難しい。移動そのものに両手を使うため、密閉できる容器でないと、中身を こぼしてしまうだろう。
彼女は、中を見ただけで何も取り出さなかった。僕の近くまで やってきて、夕食をどうするのかについて、心配そうに尋ねてきた。献立がどうとかではなく、僕が買い物に行けるか、調理が出来るか、食欲はあるか……そんな話だ。
僕はもう、平気だ。
「良い鮭を買ってあるんだ。時不知……」
「わぁ!美味しいやつだ!」
彼女の笑顔が見られれば、僕は 何だって出来る。
夕食と後片付けが済んだら、風呂を沸かしながら、僕が2人分の布団を並べて敷く。まだ敷き物を買っていないから、フローリングに直接だ。その光景を、同じ部屋の中で千秋が眺めている。
一人の時には来客用として使っていたほうの綺麗な布団を、彼女に譲る。「来客用」と言いつつ哲朗さん以外の人物が泊まりに来たことは無く、それを彼女に伝えると、彼が使った布団で寝られることについて「光栄だわ!」と笑って言った。(顔合わせをして以来、彼女は、彼の担当作品を熱心に読んでいる。)
彼女が床に降りる時、僕は いつも嬉々として手伝うのだけれど、毎回あんな事をしていたら、いずれ腰を傷めるだろう。
「早いうちに、良いベッド買わなきゃね……!」
札幌で使っていたベッドは、手放してしまったという。
「稔は、布団が良いんでしょ?」
「うん」
「じゃあ……布団が敷ける、畳のベッド2つ買おうよ」
「えっ……?」
あぁ、そうか。それでも良いのか。
「それで、大丈夫そう?」
「……うん。たぶん、大丈夫」
布団を、毎回きちんと畳めばいいんだ。
お互いが風呂に入った後、それぞれの布団に入った状態で、しばし寛ぐ。寝室の明かりは、まだ 点いている。いつものように両肘を着いてスマートフォンで何かを読んでいる彼女の、横顔を眺めているだけで僕は幸せだった。
「……何 見てるんさ?」
気付かれてしまった。
「いや……『不思議だなぁ』と思って……」
「私が ここに居るから?」
「そう」
「私も『自分が関西に居る』って すごく不思議な感じ…………しかも『隣に稔が居る』の。不思議」
「へへへ……なんでだろうね?」
「ねー」
お互いに すっとぼけて、笑い合う。
明日以降の予定や買うべき物について話し合った後、僕は彼女が居るほうへ手を伸ばし……惚れ惚れするほど逞しい上腕に そっと触れてから、どうしても初日のうちに言っておきたかった一言を告げた。
「千秋……一緒に『素敵な老夫婦』になろう」
「気が早いなぁ!」
自分の腕を枕にしつつ、僕のほうへ顔が向くよう寝返りを打ちながら豪快に笑う彼女に、僕は「そっちに行ってもいい?」と尋ねた。
「なしてさ?」
僕は、理由など答えなかった。
彼女の応えは少なくとも「NO」ではなかったから、僕は彼女の布団に侵入した。彼女のほうも、2人並んで入れるように、布団の向こう端に寄ってくれた。
「どうした、42歳」
「だから何さ」
「……一人じゃ、淋しいんかい?」
「2人が嬉しいんだよ」
「暑苦しいなぁ、もう……」
呆れたように そんなことを言いながら、それでも彼女の手は布団の中で、僕の手や腰に触れているのである。
初婚の僕は、胸が高鳴りっぱなしだ。
僕のような人間が、こんなにも【幸せ】を享受して、許されるのだろうか……?
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【38.新しい「日常」】
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