小説 「ノスタルジア」 11
11.再び
悠介が能動義手を手に入れたので、工場長は彼の現場復帰を認めました。本人の強い希望で、常務と亘が居る手動機械の棟に配属されました。
それから数週間は、特に大きな事故は無く、忙しくも順調な日々が続いていました。
悠介がボール盤かフライス盤を使っている時、亘は必ず様子を見に行きます。安全性や進捗状況の確認がいちばんの目的ですが、亘は相変わらず、彼の能動義手の構造が気になって仕方がないのです。
この日、悠介は朝からずっとフライス盤の前に居ました。大量に受注した製品の内径あけを任され、トイレに行く暇も惜しんで頑張っていました。亘は、加工が終わった分を引き取って、次の工程の担当者のところへ運ぶ役割も担っていました。
見に行くたびに予想以上の数をこなしている悠介に、声をかけてみました。
「上達したね」
「家で、将棋の駒並べて練習したんすよ」
「なるほど」
悠介は、わき目もふらずに加工を続けます。まるで、特殊な武器を使いこなして敵を撃つ兵士のような、威厳をも感じさせる眼差しと佇まいでした。
「松くん、将棋さすの?」
「あー、俺は無理っす。何回聴いても、ルール忘れるんで」
「じゃあ、先生の持ち物か」
それに対する返事はありませんでした。
少しでも早く終わらせて、可能なら次の品目に着手したいのでしょうか……。亘には、今日のうちにそこまでさせる気はありませんでしたが、長らく「職人」として生きてきた悠介には、そのような効率的な考え方が染みついているのでしょう。
亘は悠介を信頼しているので、自由にやらせてみることにしました。
同じ日の夕方、16時半頃でした。亘が2階の材料置き場で探し物をしていると、後ろから「穂波さん……!」と呼ぶ、ただならぬ様子の声がしました。ふり返ると、最近入社したパート従業員の男性が、怯えているように目を泳がせながら立っています。彼は、1階で仕事をしていたはずです。
「どうされました?」
「松尾くんが、キレてます……」
「へ!!?」
亘は、探し物そっちのけで1階へ急ぎました。呼びに来た男性も、後ろから小走りでついて来ます。
1階で、亘が何かを目にする前に、聞き慣れない怒号が響きました。悠介の声かもしれませんが、違うような気もします。
(誰かと揉めてるのか……!!?)
悠介が居るはずの場所へ急ぎます。
「終わるかよ!!こんなんで!!」
悠介は、自分の次の工程の担当者を怒鳴りつけていました。怒鳴られているのは、研削盤で外径研磨をしていた、別のパート従業員です。亘が2階に行ってしまったために、悠介は自分で加工物を渡しに来たのでしょう。
しかし、午前中には忙しくとも冷静に会話できていた悠介が、今はまるで別人なのです。トレードマークの黒マスクが取り払われ、額に血管が浮き出るほどの怒りを露わにして、叫んでいます。
今この機械場に居る正社員は、悠介と亘だけです。常務や他の社員達は、練成場からの救援要請を受けて、そちらに行ってしまいました。パートやアルバイトの従業員達は、自分の担当する機械を止めてまで2人に介入すべきか、決めあぐねているようです。
亘は、意を決して仲裁に向かいます。研削盤の前で捲し立てている悠介に歩み寄り、何があったのかと尋ねます。
「何をそんなに怒ってるんだ、松くん」
「研磨が、遅すぎるんすよ!!せっかく、内径を急いだのに!!」
怒鳴られた男性は反射的に「すみません!」と謝りますが、亘には、問題視するほどの遅さには思えませんでした。むしろ、焦るあまり寸法を間違えたり、怪我をされたりするほうが、困ります。
「良いんだよ。今日中に仕上げるわけじゃないんだから」
「それじゃ、間に合わないじゃないですか!!!」
「落ち着いて。納期はいつ?」
「明日っすよ!!!」
と、悠介は発注書を拾い上げて怒鳴りましたが、正確には明後日です。彼は今日の日付を勘違いしているようです。しかし、亘はあえてその点には触れませんでした。
「……この人が帰った後、俺が進めるから大丈夫だよ」
「亘さん、自分の仕事あるでしょ!!?」
「……落ち着こう。深呼吸して」
勘違いを指摘して感情を逆撫でするよりも、根本的な「考え方」を授けてやりたかったのですが……今の悠介は完全に「キレて」いるようで、どうにもなりません。
「そんなら、俺がやりますよ!!」
外径研磨を右手ひとつで完遂するのは、不可能ではありませんが……これほど怒り狂っている今の彼に、させたくはありません。
亘は、思わず額を押さえながら言いました。
「松くん、松くん。今日は何曜日だい?」
「火曜日っしょ!?」
「そうだね。……あそこのカレンダー、見えるかい?」
現場の中央、大きな裁断機の側面に、カレンダーが吊ってあります。悠介は発注書を持ったまま、カレンダーの数字が読める位置まで近づいていきます。
亘は、その場を動かずに声を張りました。
「納期の日は、何曜日だい?」
亘の意図や、自分の勘違いに気付いたのでしょうか。しばらく発注書とカレンダーを見比べていた悠介は、静かになりました。
しかし、亘が安心しかけた瞬間、悠介はたまたま近くにあったプラスチック製の大きなゴミ箱を、いきなり蹴りました。バキン!と大きな音がして、ゴミ箱はあっけなく飛ばされて横倒しになり、中身が床に散らばりました。それを境に、現場は今度こそ静まり返りました。(ほとんどの機械が、止まったのです。)
亘は、悠介が検査室で暴れてしまった日のことを思い出しました。彼は、素手でパイプ椅子をバラバラに壊したのです。あんなことを、現場でされたら……今度こそ、高価な機材が壊れたり、誰かが大怪我をしたり、しかねません。
亘は、再び悠介に歩み寄っていきました。
「松くん……やめよう。それは会社のものだ」
他の従業員達は万が一に備えて機械の電源を落とし、逃げるように屋外へと出ていきます。
亘は殴られることを覚悟していましたが、悠介はそんなことはしませんでした。何も言わずに立ち尽くしていた彼は、やがて検査室の時と同じように、右手で自分の髪を引っ掴み、崩れ落ちるように膝を着きました。そのまま、激しい震えを伴って泣き始め、どんどん背中が丸くなっていきました。終いには、倒れ込むように額を床に着きました。
亘は、迷わず悠介の隣に膝を着いて、彼の背中を撫でながら呼びかけました。そして、頭や頸に怪我をしたかもしれない彼を、抱き起こすか、せめて横向きに寝かせてやろうと試みました。このままでは、いくら何でも呼吸がしづらいでしょう。
「松くん、座れるかい。起こすよ……」
彼の胸の前に腕を通し、上体を支えてやると、結構な量の血が床に滴り落ちていることが判りました。以前のような鼻血か、歯で口の中を切ったのかもしれません。
しかし、亘が何を訊いても、彼は「すいません……」としか言いません。
悠介が蹴ったゴミ箱には、踏み抜かれたような穴があいていました。
悠介は亘の手を借りて、どうにかカレンダーが吊ってある裁断機の側面に背中を預けて座ることはできましたが、やはり以前と同じように、結構な量の鼻血を出しています。着ている服も、何度か鼻を拭った手も、血だらけです。
亘が「誰か、ティッシュ持ってきて!」と叫ぼうと思った瞬間に、それを手にした工場長が目に入りました。誰かが、呼んできたのでしょう。工場長は箱入りのティッシュを縦に持ち、空いているはずの手はポケットに入れたまま、こちらの様子を伺っているようでした。
「派手にやりやがったな、小僧……」
それだけ言うと、工場長は亘の足元にティッシュの箱を放り投げました。
「鼻血は任せた」
工場長は何故か悠介に近寄ろうとせず、壊れたゴミ箱を確認したり、散らかったゴミを袋に戻したりし始めました。
亘は、その行動に少なからず動揺はしましたが、まずは悠介の鼻血を止めてやらないといけないので、気持ちを切り替えました。以前に常務がしていたように、彼の、血が出ているほうの鼻の穴にティッシュを詰めて、本人には少しだけ下を向くように言い、鼻の上部を思いきり摘みました。
「ごめんよ。少し痛いかもしれない……」
悠介は、何も言わずに泣き続けています。
亘は「大丈夫だよ」と言いながら、止血をしてやるくらいしかできません。
散らかったゴミを回収し終わってから、工場長は悠介の近くに来てしゃがみました。ようやく落ち着いてきたらしい悠介は、鼻にティッシュを詰めたまま、弱々しい声で問いかけました。
「俺は……クビになりますか……?」
「するかよ、そんなもん」
工場長が差し出したゴミ袋に、亘が血だらけのティッシュの塊を放り込みます。
工場長は、悠介に語りかけます。
「おまえは、正直に持病を申告して入ってきた。そして今日、たまたま症状が出た。……それだけだろ」
悠介は、何も言えません。
「今日は早退しろ。明日は休め。……ちゃんと耳鼻科に行けよ」
「はい……」
悠介はその翌日から一週間以上休みましたが、再び出勤してくることはできました。
しかし……夕方に荒れてしまう日々は、続きました。常務が居る日は常務が、居ない日は亘が、対応し続けました。些細なきっかけで激しい癇癪を起こし、そのたびに多量の鼻血を出す悠介を、誰もが恐れ、同時に心配もしていました。
事態を重く見た亘は、ある日の昼休み明けに悠介を会議室に呼び出しました。他の誰にも、話し声を聞かせないためです。
白い壁と、グレーの床。殺風景な会議室に、椅子だけを2つ向かい合わせに置いて、亘が先に座りました。
後から座った悠介に、亘は淡々と語りかけます。
「俺が見てる限りだと……松くんは、夕方の3時半〜5時くらいの時間帯、すごく具合が悪いよね」
「自覚は、あります……」
悠介は、暗く沈んだ声で答えました。
「その時間帯だけでも、現場を外れてみるというのは、どうだろう?」
「え……」
「現場仕事は3時か3時半で終わりにして、後は定時まで事務所で製図する……というのが、松くんの身体のためには一番良いかと思うんだけど。松くんとしては、どう思う?」
「どうって……」
自分には、そんなことを決める権限は無いと思っていた悠介は、答えに困りました。
悠介が押し黙っていると、亘は更に説明を続けました。
「実は、内藤くんからも、そういう依頼が来てるんだ。営業部で製図までやるのは、やっぱり大変みたい」
「直美さんは……」
「製図に追われて、営業のことを勉強する時間が作れないらしくてさ。夕方だけでも松くんが入ってくれたら、すごく助かるんだって」
なかなか返事をしない悠介に、亘は「この場で決めろとは言わないよ」と告げました。
しばらく黙りこくっていた悠介が、やっと口を開きます。
「俺……辞めたほうが良いかもなって、最近になって……思い始めました」
「それは勿体ない」
亘の返答は、紛れもない本心でした。
「でも、俺は……あんなに人を怒鳴って、物を壊して……普通ならクビになるような人間なんです」
「俺は、そうは思わない」
亘は力を込めて断言しました。しかし、悠介は俯いたまま、亘と目を合わせようとはしません。
それでも、亘は気にしませんでした。自分の声が、悠介の耳には届いているに違いないのです。
「俺に人事権は無いけど……松くんほど真面目な社員は、今まで居なかった。だから、そうそう簡単に失いたくはない」
悠介は、亘と目を合わせようとはしません。
「松くん。冷静に考えてごらんよ。睦美と直ちゃんが、どれだけ派手に喧嘩しても、誰も解雇になんかならないでしょ?」
それは、確かにそうなのですが……。悠介としては「創業者の親族と自分では、身分が違う」としか、思えないのでした。
悠介がほとんど応えなくとも、亘は語りかけるのをやめません。
「松くんが、現場で大きな声を出すのは……普段、睦美がやってるような『言いがかり』とか『八つ当たり』の類ではなくて、単純に『焦ってしまうから』なんでしょう?」
「まぁ……そうですね。はい……」
「時間配分とか、納期のことは、松くん達は気にしなくていいんだ。機械場全体の進捗状況を随時確認して、段取りを調整するのは、俺と常務の仕事なんだ」
気にしなくていい、と言われても、やはり気になってしまうものです。
「だから……俺と常務の、段取りや伝え方に問題があるなら、まずはそっちを直さなきゃならない」
「いや、それは……」
悠介は首を振りました。
「完全に、俺の問題です」
悠介は、亘に「時間、大丈夫ですか?」と訊きました。それに亘が頷いたので、悠介は、意を決して【核心】に触れました。……少し、体が震えます。
「初めて就職した会社が……すごく、時間に厳しくて……毎日毎日『5時までに終わらせろ!!』って、先輩に怒鳴られて……間に合わなかったら、ぶっ叩かれました……」
聴いていた亘は、眉をひそめました。
「それは……完全に、駄目な会社だ。辞めて正解だ」
悠介は、下を向いて「でも……」と話を続けます。
「その時の癖が……まだ……ずっと染みついてるみたいで…………どこの会社に行っても、夕方の5時が迫ってくると、バカみたいにソワソワして……」
「……なるほど」
「今の会社の、定時は5時半だし、残業代もちゃんと出るって、頭では解ってるんすけど……」
「身体に染みついた『習性』が、抜けないんだね」
悠介は頷きました。
「そっか。……だけど、焦ってしまわないための、薬は飲んでるんだろう?」
「今まで……いろんな薬、何度も試したんすけど、全部ダメでした」
「合うものが、なかなか見つからないのか」
亘は、腕を組みました。
悠介は、言い訳ばかりしている自分が恥ずかしく、情けなくて、堪らなかったのですが、亘のほうは全くそんな風には思っていませんでした。自分のことを信用し、隠したいはずのことを正直に打ち明けてくれた悠介には、相応の【感謝】と【敬意】をもって応えようと思ったのです。
「それじゃあ……やっぱり、薬の調整が上手くいくまでは、座り仕事の時間も作って、様子を見たほうが良いんじゃないかな」
悠介は、医療者でも福祉職でもない「職人」の亘が、ここまで自分を気にかけてくれることが、不思議でもあり、同時に誇らしくもありました。「退職」という選択肢は、頭からほとんど消えていました。
「製図の担当だった頃は、夕方になっても今ほど焦らなかったでしょう?」
「そ、そうですね……」
だんだんと話は煮詰まり、悠介が翌月の1日から新しいスケジュールで働くことができるよう、亘から常務と内藤に話を通すことになりました。