小説 「吉岡奇譚」 24
24.かつての自分
その日の朝は、玄ちゃんからの電話に起こされた。普段の起床時間より、少しだけ早い。
「先生、お買い物に行こうよ!」
「買い物?……何を買うんだい?」
「僕、新しい服が欲しい!」
「そうかい……」
相手が彼なら、私は、電話をしながらでも平然と欠伸をする。
私の話し声で、夫が目を覚ます。私の独り言に慣れている彼は、普段と変わらない調子でカーテンを開け、挨拶を保留して大きな欠伸をする。
私が「電話で話している」と判ると、黙って寝室から出ていった。彼は、今日も出勤である。
玄ちゃんは、私の行きつけの作業着屋に行きたいのだと言う。作画以外に予定の無い私は、二つ返事で了承した。
朝食を用意してくれた藤森ちゃんに、玄ちゃんとの買い物について話す。彼女は「わかりました」としか言わない。
彼女は、もう玄ちゃんとは連絡を取り合っていないらしい。「酔っ払っているみたいな、おかしなLINEばかり来るから、読むだけで返さない」のだという。
私は「それが正解だと思うよ」と応えた。そして「私も、彼からのLINEには、返信しないことが多いんだ」と、付け加えた。
夫は、何も言わずに くしゃみばかりしている。
「花粉症かい?」
「たぶん……」
ティッシュの箱を引き寄せ、藤森ちゃんに背を向けて鼻をかんでいる。
「だー……ムカつくな。つっぺかって行こうかな。マスクするし」
鼻にティッシュを詰めながら、意味の分からない言葉を使い始めた。
「いやー….んだ。やめにしよ」
ぶつぶつと独り言を言いながら、鼻から抜き出したティッシュをゴミ箱に捨てる。
(独り言が、坂元くんに似てきたな)
先ほどの耳慣れない言葉も、どこかの方言なのだろう。
結局、夫は普段通りの通勤着に着替えて、藤森ちゃんと お揃いの黒マスクをして出かけていった。
玄ちゃんを自宅の最寄り駅まで迎えに行き、車で作業着屋まで走った。
その店は、労働者が出勤前に作業着や手袋等を買っていけるように、早朝から開いている。
運転しながら、私は玄ちゃんに訊く。
「キノコ屋さんで着るやつを買うのかい?」
「えーっと……僕、先生が いつも着てるみたいな、おしゃれな作業着が欲しい。どこへでも行けるやつ」
確かに、私は「地球上のどこへでも行けそうな服」が大変 好きである。キャンプや登山用にと売られている衣服を、平然と街中でも着ている。
「公園でも、山でも、工場でも……博物館でも、お役所でも。動物園でも。どこへでも行けるし、汚れても、すぐ綺麗になるやつ。僕、それを着て、大掃除がしたいな」
「良いねぇ」
私も、だからこそ作業着は大好きだ。それを着て、心のままに動き回り、行きたい場所に行き、したい事をするのだ。
そして、アトリエで絵を描く時や、応接室や図書館に篭って執筆する時には、集中力を高める濃紺の作業着を長年愛用している。
店に着き、ほぼ「貸切」状態の店内で、心ゆくまで衣服を吟味する。作業着だけではなく、アウトドアやスポーツに適した衣類や靴も売られている。
「わぁ……。先生、ほら、これ素敵。着てみなよ」
「君のを買いに来たんだろ?」
お構いなしに、玄ちゃんは私に合うサイズのメンズの作業着を手に取り、私の体に当ててみせる。
「ふふふ。素敵、素敵。よく似合うよ。かっこいい。……職人さんみたい」
玄ちゃんは、私の好みや体格を、よく理解している。善き友人である。
「先生、本当に欲しいなら、買ってあげる。連れてきてもらった、お礼」
「いいのかい?」
「一万円までなら、いいよ」
「マジか」
私は、本気で自分の服を選び始める。
彼は、自分に合うサイズのものがなかなか見つからず、何度も店員を呼んで確認を頼む。
結局、私は自分の服と、夫の靴下を買ってもらった。
彼は「車があるから」と、自分用の作業着と防寒着を しこたま買っていた。
れっきとした【豪遊】だ。
車の後部座席に荷物を積み込み、自分達は前の座席に乗る。
「いひひひひ……『お買い物日和』だね、先生!」
「たくさん買ったねぇ」
「今日は天気が良いから、このまま帰るのが勿体ないよ」
「どこか、行きたい所はあるかい?」
「え……どうしようかなぁ……?」
たくさん買い物をして ご機嫌だった玄ちゃんが、何かを思い出したようで、急に真面目な顔になった。
「あ、そうだ。僕……最近、ちょっと気になる子が居るの」
「作業所の仲間かい?」
「仲間だったの。でも……辞めちゃった」
「辞めた人のことが、どうして気になるんだい?」
「彼も、ラジオの仲間なんだ」
(またか……)
しかし、彼の幻聴は侮れない。
「彼とは、仲が良かったのかい?」
「彼は、誰とも話さないよ。……耳が悪いんだけど、紙を渡しても、何も書かないんだ。本当に、誰とも話したくないんだろうね」
「……それで、よく面接に受かったね」
「なんか……家族と支援員が『押し売り』に来たの」
「押し売り?」
「毎日、家に閉じ篭もってても、しょうがないから……『どこかに通って、仕事をする習慣を身につけさせたい』って、うちの社長に頼みに来たの。で、社長は『一般企業でも働いたことがある人なら、大丈夫だろう』って……」
「でも、本人は嫌になって辞めてしまったんだろ?」
「そう。……で、彼、毎日 動物園に居るの」
「へ?」
「作業所を辞めた後も、毎日、家を出て、動物園で時間を潰してるらしいんだ。あそこなら、お金が かからないから……」
「家に居場所が無いのか……」
「今日も、居るかもしれない」
「……行ってみるかい?」
「行こう!」
あの動物園には駐車場が無い。できるだけ近い場所にあるコインパーキングに車を停め、歩いて向かう。
今日は平日だ。比較的、空いている。
「彼、いつもサイを見てる」
入園するなり、玄ちゃんは迷わずサイの居る場所に向かう。
彼自身は、週5〜6日 作業所に出勤してキノコ栽培の仕事をしているはずだから、辞めた仲間の現在の習慣を、連絡を取り合うことも無いのに知っているというのは……やはり、彼の特殊な能力によるものなのだろう。
現代の日本の医師が【病理的な現象】として投薬治療の対象とする それは、私には、大自然の中で、離れた場所に居る仲間と連携しながら、食料とする獣を追うには欠かせない能力に思えてならない。
園内に造られた森の奥、サイが放されている運動場の前には、倒木を模した踏み台がある。客が多くて柵に近寄れない時、そこに乗ってサイが見られるようにと設置されている。
その台に、ベンチのように腰かけている人が居る。近くに、他の客は誰も居ない。
「あれが、さっき言ってた人かい?」
「そうだよ。……倉本くん。下の名前は、忘れちゃった」
玄ちゃんは、私を置いてスタスタと、彼が居る場所へ向かう。
倉本くんは、背中を丸め、元気が無いように見える。
「倉本くん、こんにちは」
顔見知りである玄ちゃんは、躊躇わず彼に近寄り、挨拶をする。しかし、彼は微動だにしない。声が聴こえないのかもしれない。
「こんにちは」
玄ちゃんは、まるで認知症の人と接する時のように、彼の真正面に回り込み、大きな声で、改めて挨拶をするが、やはり彼は動かない。自分や夫の、うつ症状が酷かった頃に、似ている気がした。
(確かに、こんな同僚が居れば、気になるだろうな……)
「隣に座ってもいい?」
彼からの返答は無いが、玄ちゃんは彼の右側に座る。
「今日、僕の友達を連れてきたんだ。吉岡先生っていうの。動物の絵本を書く人」
「こんにちは。吉岡といいます」
私は、俯き加減の倉本くんの前に片膝を着き、少し大きめの声で挨拶をしてみた。
彼の眼は、どこを見ているのか分からない。少なくとも、私を見てはいない。
それでも、彼は今日、一人でここへ来て、受付を済ませて入園しているはずだ。そのくらいの移動やコミュニケーションは出来るということだ。
(今ここにクロッキー帳があれば、目の前でサイを描いてやるのにな……)
生憎、今は最低限の貴重品しか持ち合わせていない。
私は、独断で倉本くんの左側に座った。彼は、私には目もくれず、ずっと、サイが餌を食べている姿を眺めているようだ。
「君は……サイが好き?」
応えは無い。
倉本くんは、かなり状態が悪いように見受けられる。
気候に合わない厚着である上に、ホームレスのようなボロボロの衣服を着ているし、体は極端に痩せていて、両手は土か何かで黒く汚れている。髪や ひげは、見窄らしく伸び放題だ。髪や衣服に、砂粒のようなものが たくさん付いている。
私が男性であったなら、今からでも銭湯に連れて行って、全身を洗ってやりたいくらいだ。
「毎日、一人で来ているのかい?」
耳は髪で完全に隠れているので、補聴器を着けているかどうかは判らない。
しかし、彼は今「聴こえないから」というより「応える気力が無い」か「意識レベルが低い」ために黙り込んでいるように思われる。
「倉本くん」
何度 声をかけても、まったく反応が無いのである。
動物園の職員に届け出るか、救急車を呼んでも、ばちは当たらないはずだ。
「玄ちゃん。私は……動物園の職員さんに『具合の悪そうな人が居る』と、申し出てこようかと思う」
「あ、うん。……それが良いかも」
「君は、ここに居てくれ」
「わかった」
私は、受付の裏手にある事務所に急行し、職員に「意識の不明瞭な客が居る」「救急車が必要かもしれない」と伝えた。
その場に居た職員が、無線で複数人に連絡を取り、やがて現れた警備員と共に、私はサイの展示スペースに戻った。
私達が戻る頃には、既に他の警備員と飼育員が一人ずつ そこに居て、倉本くんに呼びかけたり、肩に触れたりしていた。
彼は、やはり何も言わず、また特に抵抗もせず、されるがままにしている。
飼育員が「救急車を呼びましょう」と言い、管理事務所に無線で連絡をした。
私は、倉本くんの身分証を探すために上着やズボンのポケットを全て確認し、見つけ出した財布から彼の保険証を取り出すと共に、自分の名刺を忍ばせた。(玄ちゃんも、作業所の名前と連絡先が印刷された自分の名刺を押し込んだ。)
私はともかく、玄ちゃんの勤務先に何かしらの連絡を寄越す確率は高い気がした。
彼の保険証を飼育員に手渡した上で、後の対応は、彼らに任せることにした。
私は、玄ちゃんを自宅まで送ってやることにした。
運転する私の隣で、玄ちゃんは しょんぼりと肩を落としている。
「倉本くん……作業所に居た頃より、痩せてた」
「……でも、助けられて良かった」
「そうだけど。あんな状態なのに『働きなさい』って言う家族は、酷いよ……」
「確かに」
私は、彼も かつての夫と同じように、理解の無い家族から逃れるために家を出たのではないかと考えていた。
「彼はね……卵屋さんだったんだ」
「卵屋さん……養鶏場?」
「そう。養鶏場で、卵を回収する係だったの」
「社長か誰かに聴いたの?」
「個人記録を見たの」
「それは駄目だよ!」
福祉作業所には、個々の利用者の生育歴や家族構成、通院や投薬の状況、作業中の様子、訓練の内容等を記録した「個人記録」というものがある。(その書類を何と呼ぶのかは、おそらく作業所ごとに異なるが、行政から提出を求められたら、応じなければならない。公的な書類である。私達が知らないだけで、法律上の正式名称というものが在るはずだ。)
個人情報であるため、職員以外の人間の目に触れることが無いよう、厳重に管理しなければならない。
「だって……サビ管が、僕らが お昼ごはん食べてる真横で書いてるんだもの。丸見えだよ」
「それは、サビ管が馬鹿だな……」
サビ管というのは「サービス管理責任者」の略称である。
「彼は、いくつ?」
「28歳だったと思う」
外見からは、もっと若いかと思っていた。
「元気になってくれると良いけどね……」
「僕、明日社長に このことを言うよ」
「是非そうしてくれ」
あの倉本くんは、救急車で病院に運んだくらいでは、状態は良くならないだろう。福祉の専門家による継続的な支援が必要だ。
玄ちゃんを送り届けてから帰宅すると、藤森ちゃんがスマートフォンで物件を探していた。
「お、いよいよ引越しかい?」
彼女は、以前にも気にしていた、例の坂元くん宅の近所の物件に、目星をつけているようだった。
「車が必要なら協力するよ」
彼女こそ、真に逞しい若者であるように思う。
私は、彼女が去った和室に、今日 知り合ったばかりの倉本くんが寝泊まりすることを想定していた。
玄ちゃんの家でも良いのだが、私は、彼に動物園以外の【居場所】を提供してやりたかった。
私の直感が正しければ、彼を、あそこまで衰弱させたのは家族だ。いつまでも同居をすべきではない。