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小説 「吉岡奇譚」 34

34.愛弟子と蜂蜜

 その日届いた稀一少年からの手紙は、いつもより大きめの封筒に入っていた。明らかにいつもより厚く、重い。(100円分の切手が貼られている。)
 かつてのアトリエにて開封すると、私宛ての文書と共に、藤森ちゃん宛ての手紙が同封されていた。きちんと封がされた高級感ある封筒に、気合の込もった美しい字で、表面には彼女の名が、裏面には彼の名が書かれている。
 その手紙を「彼女に渡してほしい」という旨が、私宛ての文書に記載されている。
「おやおや。これは、もしや……!」
少年からの【恋文】ではなかろうか?
(良いねぇ。『春』だねぇ……!!)
 我ながら無粋な勘繰りだが、それが事実なら、微笑ましくて堪らない。

 私は「君にファンレターが来てるよ」と言って、買い出しから戻ってきた彼女に、それを手渡した。
「誰も居ないところで開けてやるのが、良いと思うよ」
彼女は「わかりました」と応じ、開封せず通勤鞄の中に しまった。


 数日後。稀一少年本人が、またしてもアポ無しで訪ねてきた。小さな紙袋を提げている。
「何だい?それは」
「お姉ちゃんに、あげるねん」
「おぉ……!」
 彼が2階で藤森ちゃんに手渡した それは、瓶詰めのマヌカハニーだった。(割れないように、タオルで包んで来ていた。)
「これ、めっちゃ喉に良いらしいねん!」
(小洒落たことをするようになったなぁ……)
 彼女は、照れ隠しのように笑いながら、筆談具に何かを書いている。(相変わらず、まったく声が出ないままだ。)
 少年に出す菓子を探していた私は、その光景を台所から眺めていた。
「素敵なプレゼントじゃないか。……紅茶を淹れようか?」
冷たい茶を出してやろうかと思っていたが、せっかく、良い蜂蜜が手に入ったのである。
「3人で飲んだら、一気に減ってまうやろ!?」
「彼女の分にだけ、蜂蜜を入れればいいだろ」
「あ、そうか……」
 私は淡々と電気ケトルで湯を沸かし、カップとティーバッグを用意する。

 3人分の紅茶と菓子を用意して、私も食卓につく。砂糖や蜂蜜、牛乳は「セルフサービス」である。
「今は、春休みかい?」
「もう卒業式 終わった」
「あ、そうか!おめでとう!」
「あんまり、嬉しくない……」
彼は、学校そのものに愛着が無い。
「中学は楽しめると良いね」
「あんまり期待してない」
「ドライだなぁ……」
 私と彼が紅茶に砂糖を溶かしながら話す間、藤森ちゃんは高価な蜂蜜入りの紅茶を、じっくり味わって飲んでいる。


 インターホンが鳴る。
 病院の帰りに動物園に寄ってくると言っていた倉本くんが帰ってきて、2階に上がってくる。荷物は和室に置いてきたようで、手ぶらだ。
「おかえり」
「ただいま、帰りました……」
受診や人混みで疲れたのか、消え入りそうな声である。
 稀一少年に気付き、不思議そうに見ている彼に、私は耳打ちした。
「私のペンフレンドが、遊びに来ているんだ」
 それを聴いた倉本くんが何かを言う前に、稀一少年が「どちらさん?」と、私に問いかける。
「彼は、私の【弟子】だ」
「弟子なんかんの!?……何する人? 絵、描くん?」
「あっ……うぉ……ぉ……」
倉本くんは、激しく動揺し、口ごもった。顔が紅潮する。
 私は、詫びの気持ちを込めて、そっと背中を叩く。
「ううぅ……うぅ……」
体調が、良くなさそうだ。彼が鼻に皺を寄せて唸っている姿など、初めて見る。
「深呼吸、深呼吸……」
彼は、何度か深呼吸をしてから、冷蔵庫からピッチャーを取り出し、岩くん用のカップに注いだ。(倉本くん用というものは無いのだ。)
 それを持って食卓につく。他の2人とは、距離を置いて座る。
 稀一少年が、藤森ちゃんに近寄って何かを耳打ちし、彼女が答えを書いてやる。少年は、真面目な顔でそれを読んだ後、藤森ちゃんが書き足したものを読んで、小さな声で「そうなん?」と言いながら笑っていた。きっと「内緒の話」だ。
 私は、倉本くんの側に座って「疲れたかい?」と訊いてみた。彼は、力無く「はい」と答えた。
「それを飲んだら、下で、少し休みなよ」
「はい……」
言葉は返してくれるが、やけに目が泳いでいる。不快そうに目を閉じたり、擦ったりする。
 今、彼の目には、私には見えない何かが見えている気がする。

 倉本くんが黙って和室に行ってしまった後も、稀一少年はご機嫌に藤森ちゃんと話したり、彼女のスマートフォンでゲームをさせてもらったりしている。
 私が「そろそろ送ってやるよ」と言うと、かなり渋った。彼は、施設での暮らしも、決して好きではないようだ。

 車の中でも、彼は 終始 不機嫌だった。


 少年を送り届けて帰宅した後、3人で夕食を摂り、倉本くんは食後すぐに1階に消えた。その間、彼は一言も発さなかった。
「彼、今日は疲れたんだろうね」
彼女は頷くだけで、特に言及はしない。黙々と食卓を拭き、座布団を整える。
「ところで、あの蜂蜜は どうする?持って帰る?」
 一仕事終えてから座布団に座り、食卓の下に置いていた筆談具に返事を書く。
【ここに置いていても、いいですか?】
「もちろん。……名前を書いておいてくれるなら」

「それにしても、ファンレターの次はプレゼントか……随分と、気に入られてしまったみたいだね」
彼女は、さも可笑しそうにクスクス笑っている。
【手紙には『お姉ちゃんの喉が早く治るように、毎日お地蔵さんにお祈りしています』と書いてありました】
「健気だなぁ……」
彼女は、うんうんと2回頷いてから、ふっと真面目な顔になって、次を書いた。
【彼の気持ちは嬉しいのですが……私は正直「このまま声が出なくてもいい」と思っています】
もう3年以上、出ていないはずだ。もう「口話をしない暮らし」が、当たり前になっているのだろう。
「……病院で治療を受けたことは、あるんだっけ?」
【何回か、よく分からない注射を打たれましたが、何も変わりませんでした。正直「お金のムダだ」と思いました】
「そうかぁ……。まぁ、治療を受けるかどうかは、本人が決めることだからね。君が望まないのなら……他の誰かが、口を出すことではないよ」
少なくとも、この家で今の仕事をしてもらう分には、必ずしも「声」は要らない。支障が出るとすれば、やはり私生活の場面だろう。
【今は むしろ「また声が出始めたら、自分ではなくなる」ような気がしています】
「そこまで?」
生活が不便でも治療を望まないとは、なかなかの変わり者のようにも思えるが……似たような感覚の持ち主を、私は知っている。
 我が弟である。
「そういえば……うちの弟はね。中途失聴なのだけれども、ほとんど耳鼻科に行っていないんだ。『聴こえにくい』と感じた時点で手を打っていれば、あそこまで悪くはならなかったかもしれないのに……結局、『難聴』を通り越して『聾』の域に達するまで、放置したね。
 私は『なんて馬鹿なことを……』と、責めたこともあったけれども、あいつは、むしろ『聴こえなくなって、ストレスが減った』と、喜んでいたんだ」
彼女は、返答を書きあぐねている。
「当時のあいつにとって、最大のストレスは…………勤務先で、亡くなった妻の悪口を言われることだったんだ」
彼女は何も書かなかったが、表情は雄弁だ。驚きと、怒りに満ちている。
「本当に、ろくでもない会社だよ。死ぬほど頑張った人材を、後々になってまで笑いものにして、後から入社してきた旦那にまで、しかも わざわざ本人に聞こえるように、連日、現場で悪口を言うんだもの。
 それで、弟は、何度もキレて、喧嘩して……上司や同僚を殴って。それでも『俺が、この会社を変える!!』って意気込んで…………まぁ、結局は、社長を殴って辞めたよ」
彼女は、何も書けずにいる。
「彼が、耳の治療を拒んで、むしろ『そのまま失聴することを望んだ』ということについて、『年金目当てだろ!?』だなんて、嫌味を言う人も居たけれども……彼の望みは『罵詈雑言からの解放』だよ」

【私、先生の弟さんに、会ってみたいです】
「そうかい?……当分、先になると思うよ。遠方に居るし、【働き虫】だから。
 でも、まぁ……いずれは、ここに来るだろうね。君達の『オーナー』だし」
【オーナーに、きちんと ご挨拶がしたいです】
(真面目だなぁ……)
「そんな、格式張らなくていいからね。……あんな奴、ただの【哲学ゴリラ】だ」
 彼女の頭の上に「!?」というマークが見えるようである。
「会えば解るよ」


 藤森ちゃんが退勤した後、いつもより遅い時間になってから、夫が帰宅した。
 夫は、毎晩 帰宅するたびに「和真は?」と訊いてくる。まるで、息子か、弟のようである。
「今日は、病院で かなり気疲れしたみたいだから……もう、寝てるんじゃないかな?」
「そうか……」

 靴を脱ぎ、脱衣所に向かいながら、ぽつりと呟く。
「俺、今度の休みに、あいつと2人で動物園に行ってみようかな」
「どういう心境の変化だ!」
私は、堪えきれずに笑った。
 夫は、動物園内の人混みや匂いを嫌うため、私が誘っても まず応じないのだ。
「あいつの好きな場所に、一緒に行ってみたいんだ」
「……明日にでも、訊いてみなよ」

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 後日。彼らは2人で動物園に行き、私は自宅で帰りを待った。
 資料室にクロッキー帳を持ち込み、友人の名義で出版されたファンタジー小説を読み漁りながら、自分名義で出版する作品の構想を練っていた。
 藤森ちゃんも、リビングで全く別の物語を読んでいる。岩くんが編集を担当したライトノベルである。(図書館で借りてきたらしい。)
 読書好きの彼女には「岩くん担当作品」を、幾つか教えてある。

 夕食前に2人が帰ってきて、ささやかな お土産をくれた。
 夫は、帰るなり風呂に入っていた。


 その日の夜。風呂から上がった倉本くんが、おずおずと、資料室に篭る私のところにやってきて「一人暮らしがしたい」と言い始めた。
「どうしたんだい?急に……」
「父に渡していた金額を、家賃に充てれば……一人で暮らせます」
「……まだ、焦らなくていいと思うよ?」
私は、机の上に散らかしていた小説を順番通りに並ぶよう棚に戻しながら応えた。
「僕は……あの家には、帰りません」
今の彼は、どうも、目の焦点が定まらない。私ではなく、棚に並んでいる書籍の数々に関心が向いているのなら、良いのだが……。
 私は「まぁまぁ、座りなよ」としか言わなかった。
「あの家で食う飯は【毒】です」
「どうしたんだ、急に……」
 私は、一向に座ろうとしない彼の肩に手を添えて、改めて座るよう促した。
 彼は何故か怒っているような様子で、少し息が荒い。それでも、今回は素直に座ってくれた。
 私は、隣の椅子を少し動かして、すぐ隣で、彼のほうを向いて座る。
「焦って一人にならなくとも、ご実家に戻らないで、この家に居ればいいじゃないか」
「僕が!いつまでも、ここに居たら……ご迷惑でしょう!?」
いつになく、力強い声である。
 相変わらず、私ではなく空中ばかり気にしている。
「そんなことはないよ。……一部屋を誰かに貸したくらいで、私達の暮らしぶりは、何も変わらないから。決して『迷惑』ではないよ」
「じゃあ、じゃあ……僕は、この家で、家賃を払います」
「……そうかい?
 だったら……月2万円でいいかな。食費込みで」
「そ、そんなに……?安く……?」
「充分だよ。私は、友人から、余分な金を巻き上げるなんて嫌だもの」
「ゆう……友人……」

「……ほら。今日は暑かったから、疲れているんだろう。早く寝たほうがいい」
「でも、僕、まだ……課長に、お礼を言ってなくて……」
「……何のことだい?」
「救急車を呼んでくれた、お礼を……まだ言ってないんです」
(見当識が怪しくなってきたな……)
「明日にしたら?」
「連絡先が分かりません……」
「会社の電話番号は?」
「お、恐ろしくて、出来ません!」

「珍しいな。大きな声 出して」
夫が、3階に上がってきたのだ。
「僕、帰ります!」
「家には帰らないんじゃなかったのか」
「部屋に、帰ります!」
「あぁ。……はい、どうぞ」
 私が「許可」すると、彼は すっと立ち上がり、部屋から出ていく。ドアの近くに居た夫は、彼に進路を譲った。
「悠さん、おやすみなさい」
「あいよ。おやすみー」
 彼が階段を降りていく足音を聴きながら、私は椅子を元の向きに戻した。
「どうしたんだ?」
「よく解らない……相変わらず『過去』と『現在』が、ごちゃ混ぜだ」
「……薬は『減った』って言ってたけどな」
「私が『減薬したいと申し出なさい』と言ったんだ。胃の状態が、あまりに悪いから……」
「なるほど」
「外出中は元気だったんだろ?」
「あぁ、元気だった。園内を全部見てから、牛タン食って帰ってきた」
「彼、牛タン好きだなぁ……」
「匂いと食感が好きなんだと」
「『美味しい』と思えるものがあるのは、良いことだよ」
「だな」


次のエピソード
【35.「出来ることを、やれ」】
https://note.com/mokkei4486/n/n7918294bcd2a

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