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小説 「吉岡奇譚」 8

8.彼亡き後の

 私は、一方的に「藤森ちゃん」と呼ぶことにした彼女と、毎日のようにLINEでやりとりをするようになった。
 とはいえ、玄ちゃんが彼女に会いたがっていることを、なかなか伝えられずにいた。
 玄ちゃんからのLINEが、明らかに「具合が悪そう」な文面で、よく知らない相手と引合わせられる状態ではなさそうだと感じていたからだ。

 本人からのLINEによると、藤森ちゃんは21歳で、清掃業のアルバイトをしながら、宿泊料金が極めて安いゲストハウスに長期滞在している。これまでに複数の県を旅してきたという彼女は、既に半年近く滞在している この街を大変気に入ったらしく、いずれはアパートを借りて住めるよう、貯金を始めたのだという。
 彼女は、口話が出来なくとも、独立して逞しく生きている。(大学入学直後に、突然 声が出なくなったというが、原因は「医者にも わからない」とのことで、私は、その文面から直感的に「心因性の失声症ではないか?」と思った。しかし、本人は「死ぬような病気ではないし、筆談具とスマホがあれば、生活は出来るから」として、特に加療は望んでいないのだという。)
 自由に、自らの意志で、生き方を選び取っている。彼女は毅い。

 彼女が滞在しているゲストハウスにはカフェが併設されているので、そこを訪ねれば、一緒に食事が出来るなぁ……などと、私は漠然と考えていた。
 彼女がそれを望むかどうかは分からないし、そこに玄ちゃんを連れて行けるかどうかも、また別の話だ。
 それについて考えるのは、玄ちゃんの体調と、彼女の意思を確かめてからだ。

 玄ちゃんの様子が気になるので「たまには私がご馳走する」と言って、外食に誘ってみた。彼は、応じてくれた。
 私が、日時を告げた上で「玄ちゃんに会ってくる」と言うと、夫は「俺も行きたい」と言い始めた。私は了承した。


 夫の希望で焼き肉を食べに行くことになり、当日、玄ちゃんはヘッドホン無しの状態で約束の店にやってきた。(ボディーバッグには入っているかもしれない。)
 よほど焼き肉が楽しみなのか、ずっとにやにや笑っている。
「悠さん、こんにちは」
「こんにちは。お久しぶりっすね」
玄ちゃんが私の夫と会うのは、数年ぶりだ。

 私は牛タンを たらふく食べられれば満足なのだが、男性陣2人は、とんでもない量の米と肉を頼む。
 夫と2人で肉を網に乗せながら、私は玄ちゃんに訊いた。
「結局、仕事は変わったのかい?」
彼は、肉が焼けるのを 待ちきれずに、先に白いごはんだけを食べている。
「うん。今は、あの駅の近くで、キノコの栽培してる」
「良かったじゃないか!食べるものを作りたかったんだろ?」
「まぁね……」
「楽しめているかい?」
「作業は楽しいよ」
「長く続けられるといいね」
「うん……」
おそらく、彼は今、肉にしか興味が無い。

 玄ちゃんは、焼けた肉を食べ始めると同時に、ごはんのおかわりを頼んだ。
「先生。あの、鞄を盗られた子は、元気?」
「元気だよ。彼女は今、アルバイトをしながらゲストハウスに滞在しているのだけれども……この街を気に入ったから、アパートを借りて住めるように、お金を貯めているらしいよ」
「お母さんとは、どうなったかな?」
「お母さん?」
私は、彼女の家庭環境のことまでは知らない。
「私は、何も知らないよ」
「あの子は……お母さんに虐待されていたから、逃げてきて、ここに居るはずなんだ」
「……ラジオで聴いたのかい?」
「そうだよ。……あの子も、僕と同じチャンネルを聴いているんだ」
(幻聴に対する『確信』が、強くなっているな……)
 夫は、会話の内容などお構いなしに、ひたすら肉を焼いて食べている。ちゃんと、私達の皿にも焼けた肉を置いてくれる。
「私は、彼女からそんな話を聴いたことはないよ」
「誰にも言えないから、ラジオに届くんだ」
(やはり、あの【番組】は、人々の『心の声』なのか……?)
非科学的な話ではあるが、私は、彼の世界観や感覚を、全面的に否定するつもりはない。物語を書く人間として、個人の「頭の中にある世界」を、否定することは出来ない。自身の生業を否定することになる。
「あの声は彼女のものだという、確信があるのかい?」
「僕が鞄を取り返したこと、話してたから……」
「実際の彼女は、声を出すことが出来ないんだよ」
「知ってるよ。大学に入ってすぐ、突然 出なくなったんでしょう?」
(何故、それを知っている……!?)
「そんなことまで、彼女が【番組】に投稿していたのかい?」
「そうだよ。……あのチャンネルは、みんなが深い悩みを送るところなんだ」
 周囲の人々が「それは、君だけに聴こえる『幻聴』なんだよ」と、何度言っても、彼は納得しない。今のように、彼があのヘッドホンから聴こえる【番組】で得た情報が、事実と一致する場合があるからだ。
「君は、いつも愉快な【番組】を聴いていたじゃないか」
「僕、困っている人を助けたいから、たまには別のチャンネルを聴くんだ。困っている人の声が聴こえる番組……」
 私は、思わず腕を組んだ。
「玄さん、食べてくださいねー」
夫は、彼の皿に焼けた肉を淡々と盛り続ける。玄ちゃんは、素直に食べる。
「諒ちゃん、カルビ要る?」
「頂こうかな」
私がそう答えると、夫は、私の皿にも淡々と焼けたカルビを乗せる。
「豚トロ頼んでもいい?」
「……いいよ」
私は、このカルビで、肉は終わりにしようと思う。
 私は、夫にまで「豚肉を食うな」と言うつもりはない。外食の時くらい、好きにさせる。(優秀な坂元くんは、絶対に豚肉および豚由来の加工品を買ってこないので、我が家の普段の食事では、夫が豚肉を口にすることはない。)
 私が豚肉を忌避する理由を、夫は知っている。しかし、それは彼とは無関係な理由である。彼が望まないなら、私は、自身の信条や習慣を、彼に押しつけるつもりはない。


 食事が終わり、解散後。私は、夫と共に駅のホームで電車を待っていた。
「玄さん、やっぱり調子悪そうだったな」
「そうかい?あんなに食欲旺盛だったじゃないか」
「……現実の話が、ほとんど出来てなかっただろ」
「私が、そのことばかり訊いたからじゃないかな?」
「……玄さんを、その女の子と本当に会わせるのか?」
「彼は望んでいるけれども……私は、彼女に それを伝えるかどうかさえ、決めかねている」
「もし、本当に会わせるなら……その時は、俺も一緒に行く」
「どうしてだい?」
「……俺も、その子に会ってみたい」
「えぇ!?」
「……本当に虐待されてたんなら、俺も力になりたい」
夫は、いつから こんな事を言う人間になったのだろうか……。


 後日、私はゲストハウスそのものに興味があるという理由で、藤森ちゃんに「一人ででも そこのカフェに行ってみたい」とLINEで伝えた。彼女は「せっかくなので、ご一緒しましょう」と返信をくれた。
 約束の日時。私はゲストハウスの1階部分にあるカフェで、読書をしながら彼女を待った。紅茶だけは頼んだ。
 やがて、ジャージ姿の彼女がやってきた。風呂に入ってきた直後らしく、赤い顔をして、石鹸の良い香りを漂わせている。髪はまだ少し湿っている。(彼女は、夫と同じく黒マスクの愛好家らしい。私は白マスク派である。)
「やあ。お久しぶりだね」
【お会いできて光栄です、先生。】
彼女は、予め筆談具に記入してあった文章を見せてくれた。
「上で、お風呂に入ってきたのかい?」
彼女は頷き、席に着いてから、スラスラと返事を書く。
【仕事終わりは、必ずシャワーを浴びます】
「掃除屋さんだものねぇ……」
私は、メニューを渡す。

 注文した物が来るまでの間、私は彼女にゲストハウスのことをいくつか訊いた。
 料金は格安だが、宿泊者だけに渡されるカードキーが無ければ、客室のある階層には上がれないようになっているそうで、セキュリティーはしっかりしているようだ。(もちろん、客室やシャワールームにも個別の鍵はある。)
 この1階部分がそうであるように、2階より上も、壁に絵が描かれていたり、廊下に彫刻が飾られていたりして、アート作品で溢れているそうだ。また、客室にはノートが置かれ、自由に言葉や絵を描いていくことが出来るという。作品の展示室もあって、プロアマ問わずアーティスト達の作品を鑑賞したり、過去に長期滞在をした客が残した長い日誌を読んだりすることも出来るらしい。
「不思議な所だねぇ……」
絵を描く人間としては、非常に心惹かれる。
 アート作品の鑑賞や製作のためだけに、数泊してみる価値はありそうだ。

 注文した軽食が運ばれてきて、私達はそれを食べ始める。
「ところで……藤森ちゃんは、恐竜が好きなのかい?」
【好きです。】
「私も、恐竜は大好きだよ。よく、一人で博物館に行くんだ」
【分かります!ミュージアムショップだけでも、楽しいですよね!】
「同志が居て、良かった」
彼女は、筆談具の文字を消した。
「そういえば……恐竜の研究者で、君と同じ苗字の、藤森博士という方がいらっしゃってね。知っているかい?」
彼女は、頷いた。
「やはり有名なんだね。私は、彼のファンだったのだけれども……若くして、亡くなってしまった。非常に残念だ……」
 その後、彼女が書いた一文を見て、私は本当に驚いた。
【藤森恭一郎は、私の父です。】
「お……お父様なのかい!?え、本当に?」
【本当です】
「なんと……」
彼に娘さんが居たとは、知らなかった。
「ということは、お父様が亡くなった時、君はまだ……中学生くらいかな?」
彼女は頷いた。
「そうかい。お気の毒に……。お母様は、ご健在なのかい?」
彼女は再び頷いたが、表情は暗い。ペンは進まない。
(まずいことを訊いてしまったか……。まさか、本当に虐待を……!?)
友人の幻聴を真に受けるべきではないが、母親について言及しただけで、彼女の表情が一変したのは確かだ。
「ごめんよ。失礼なことを訊いた……」
【大丈夫です。気にしないでください。】
「本当に申し訳ない……」

 食事と筆談を併行するだけでも不便だろうから、私は、彼女が食べ終わるまでは無闇に話しかけないことにした。
 食事が終わり、彼女がタッチペンを手に書きあぐねているのを見て、私は、意を決して玄ちゃんの話をした。
「以前、君の鞄を取り返した友人が、君が元気かどうかとか、今後のこととか、すごく気にかけていて……君に『会いたい』と言っているのだけれども、どうかな?もちろん、私も同席する」
【あの、男の人ですか?】
「そうだよ。39歳のおじさんなのだけれども……悪い人ではないよ。彼も、詩や物語を書くのが好きなんだ。このゲストハウスにも、興味があるらしい」
【私も、直接お礼が言えるなら、嬉しいです。】
「決まりだね。日程は、後で決めよう。彼にも予定を訊かなきゃならない」
【わかりました】
「それと……おじさんばかりで申し訳ないのだけれども、私の夫を同席させても、いいかい?」
【いいですよ】
「ありがとう」


 帰宅後、私は、まっすぐ資料室に向かった。藤森博士の著書を手に「貴方の娘さんは、ご立派になられましたよ」と、故人へ報告した。
 その後、父亡き後の彼女の人生に、しばし想いを馳せた。
 私も、夫と同じことを思った。


次のエピソード
【9.交替要員】
https://note.com/mokkei4486/n/nd29416543d9f

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