小説 「僕と彼らの裏話」 42
42.小さな「至宝」
夜は3階の寝室で寝て、日中は1階の和室で静かに過ごす……というのが、彼の新たなルーティーンとなった。
いつか見たように、先生の著書が床の間に積み上げられ、彼はよく それを「読む」というより、思い入れのあるページだけを選んで見つめている。好きなゲームをする気力も無いらしい彼は、一日の大半を畳の上で寝転がって過ごし、僕が様子を見に行くたびに、イヤホンで何かを聴きながら、絵本か天井を眺めている。
僕らが挨拶をしたり、話しかけたりしても、反応が無いことも多い。
僕は、長らく彼の声を聞いていない。
先生からの指示もあり、僕は涼しい時間帯を狙って ごく短時間の散歩や買い物に彼を連れ出すこともあった。しかし、僕らが「会話」をすることは無い。彼が、歩くことを渋ったり、行き先や買う物について僕の提案を否定したりすることは無かったけれど、頷くことも滅多になかった。いつも、ほとんど何も反応を示さないまま、ただ黙って ついて来てくれる。僕は、散歩中は いつも 店頭に並ぶ商品や、街中で見かける動植物、あるいは天気や気圧について、何かしら話してみるのだけれど、彼がそれに興味を示したことは無い。
その様子は、僕や先生が「松尾くん」と呼んでいた頃の彼に似ているようにも思えたけれど、なんだか、まったく別の人と歩いているようでもあって、僕は、ひどく物悲しくなる時があった。以前の彼なら大喜びで見ていたような、コンビニのレジ付近にある揚げ物とか、古本屋に並ぶ漫画とか、そんなものにも……一切の関心が無くなったように見える。
そして、藤森さんと一緒に落語を観ていた あの時以来、彼の笑顔を見ていない。
僕らと一緒に2階で食事ができるようにはなったけれど、彼はいつも機械的に食糧を口に入れている感じだ。テレビを観て、笑うようなことも無い。
ある日、2人での散歩から帰った直後。手を洗ったついでに洗面台の掃除をしてから、なんとなく和室まで彼の様子を見に行くと、彼は珍しく起きていた。畳の上で自分の長財布を広げている。左足で財布を押さえつけて、カード類を何枚も引っ張り出して辺りに散らかし、何か小さな紙を一枚手に取ると、それを じっと見つめる。
「探し物ですか?」
僕が側まで行くと、彼は手に持った それを見せてくれた。
それは僕の知らない人物の名刺だった。それでも、僕は その人の「義肢装具士」という肩書きを目にした瞬間、彼の意図を理解した。
僕との約束を、憶えていてくれたのだ。
「これ、お借りしてもいいですか?」
僕の問いに、彼はまず頷きで応えた。そして、ふらふらと視線を泳がせながら「お、お、お、お……」と何度も つっかえて、やっと「奥さんに」という言葉が出てきたのを聴いた時、僕は、自分の顔が赤くなるのを感じていた。自分は結婚したのだという実感とか、久方ぶりに彼の声を聴いた喜びが、腹の底から湧き上がるようだった。
「ありがとうございます……!」
小さな名刺が、まるで「至宝」のようだった。彼の手から、それを受け取ったことが、なんだか とても誇らしかった。
しかし、それっきり、彼は また一言も話さなくなった。
その日の、帰宅後。リビングでゲーム機のワイヤレスコントローラーの設定を変更していた千秋に声をかけ、僕は悠介さんからの預かり物を差し出した。彼女は、その小さな紙を見た瞬間に「何それ?」と言った。
「義肢屋さんの名刺。先生の旦那さんが、お世話になってる人」
「……え、何?『もっとマシな義足を買え』ってこと?」
彼女は、何やら怪訝そうな目で僕を見る。
「違う、違う!千秋が本当に欲しいなら、頼めば良いと思って……」
彼女は、一旦はそれを受け取ってくれたけれど、ほんの数秒 見ただけで、すぐにまた僕に突き返した。
「要らない。……私、そんなんの練習してる暇あったら、動画作りたい!」
「えぇー!?」
あまりにも、あっけなく断られた。
「……1本30万くらいするのが、2本要るんだよ?もう、貯金が無いわ!」
「そ、そんなすんの!?」
「ちゃんとしたやつは高いよ。……競技用のなんか、平気で100万超えるよ」
「うひゃー……」
知らなかった。なんと高額なのだろう……!
そして、義手というのも、そのくらいの値段は するのだろう。それを……彼は10本以上持っている。そのため、勤務先の更衣室のロッカーを、彼だけは2つ使っている。
「私は、5〜6万の『車』で充分よ」
それだって、我が家には2台ある。結構な出費だ。(僕は、義肢や福祉機器を買う費用ならば行政からの援助があるに違いないと思っていたけれど……受けられるのは、あくまでも「貸付」なのだという。千秋から教わるまで、知らなかった。)
悠介さんには悪いけれど、千秋自身が望まないなら、僕には どうしようもない。
「……千秋が望まないなら、無理強いはしないよ」
「うん……。お気持ちだけ頂いとく」
コントローラーの繋ぎ替えが完了し、ソファーに座ってプレイすべく、彼女はタイヤの向きを変えて動き出す。
「ところで……先生の旦那さんも、義足使う人なの?」
「義手だね」
「そっちか……」
僕は、彼が勤務先に複数本の義手をストックしていて、作業内容に合わせて着け換えるという話をした。そして、滅多に使わないプライベート用は、すごくハイテクで かっこいいのだということも話した。
千秋は、ソファーに移動した後も しばらくゲームを起動せず、いつになく真面目な顔で相槌を打ちながら聴いてくれる。
「そういえば、旦那さんには 結局会えず仕舞いだもんね。……相変わらず、お忙しいのかな?」
僕は、しばらく答えに迷ったけれど、嘘は教えないことにした。
「旦那さん、今……具合が悪いんだ。夏場に、心臓の病気で倒れたんだ……」
「え!!?そうなの!?知らなかった……」
「もう少し元気になったら、うちに お呼びしたいくらいなんだけど……いつになるかな」
「入院してるの?」
「ご自宅で、静養中だね」
彼女は、コントローラーを大事そうに両手で持ったまま、いかなるボタンも押さない。
「先生、今まで一度も そんなこと話してくれなかったよ……」
「僕らが『新婚』だからじゃないかな」
「なんだか、申し訳ないな……」
「……誰も悪くないよ」
その後、僕は彼女の誘いに乗って格闘ゲームで対戦し、ボロ負けし続けた。
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