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小説 「吉岡奇譚」 20

20.避難

 深夜に、奇妙な夢を見て、目が覚めた。よくある『過去』に関連した夢ではなく、玄ちゃんに連れられて行った廃工場らしき場所で、若い男性の遺体を発見する夢だった。その遺体は、本人よりは随分と若かったが、容姿は坂元くんに似ている気がした。更には、夫の勤務先の制服に酷似したものを着ていた。
 非常に、寝覚めが悪かった。
 気分を変えようとトイレに行き、2階の台所で水を飲み、再び寝室に戻ったら、時刻を見ようとスマートフォンを手に取った。
 すると、私は全く気付いていなかったのだが、いつの間にか藤森ちゃんからLINEが来ていた。
【母に居場所を知られてしまいました。私は、殺されるかもしれません】
という文章が、つい一時間前、深夜2時過ぎに来ていた。
(殺されるって、そんな……!!)
親子関係が良くないことを示す比喩であってほしいが、普段の彼女なら絶対に ありえない時間帯に送ってきているし、私は、妙な胸騒ぎがした。
 とんでもない時間帯ではあるが、私は【今、君は どこに居る?】と、返信してみた。

 15分近く経ってから【別の宿に泊まっています】と返信があり、ひとまず私は安堵した。
 画面の明るさで夫を起こしてしまっては悪いので、私は薄ら寒い廊下に出て返信を打った。
【お母さんが、あのゲストハウスに来たのかい?】
【そうです。】
【喧嘩になったの?】
【喧嘩ではありません。母は、怒ると一方的に怒鳴って、叩くので、会話になりません。私は、部屋に荷物を置いたまま逃げました。】
【今日は、予定通り出勤できるのかい?】
【させてください。お願いします。】
【気を付けて、おいでよ。】
 無事であることが判った彼女に「おやすみ」のスタンプを送ってから、私は布団に戻った。

 11時頃になって出勤してきた彼女は、前夜は ほとんど眠れなかったかのような顔をしていた。通勤用のリュックだけは持ち出してきたようで、荷物は普段と変わらない。
「おはよう。……大丈夫かい?」
彼女は「おはようございます」と「ごめんなさい」の手話をした後、泣き出してしまった。
「ひとまず、タイムカードを押しなよ」
 深夜のLINEのことは、まだ夫には話していない。彼は今日、出勤だ。

 彼女を伴って2階に上がる。彼女は、いつも通りタイムカードを押したら、台所で手洗い・うがいをする。今日は、顔も洗う。
 私は、リビングの片隅に常備してある洗濯済み台所用タオルの棚から1枚を引っ張り出し、彼女に手渡した。おそらく、そう簡単に涙が止まる状況ではないはずだ。
 彼女は、それを両手で受け取ると、すぐに顔を拭いた。

「いやぁ……あんな夜中に、物騒なLINEが来たから、びっくりしたよ」
私は、普段の食事の席に座り、彼女にも近くに座るよう促した。
 彼女は、私が示した場所に座り、リュックから筆談具を取り出した。
「お母さんは、君がこの街に居ることを知らなかったのかい?」
【秘密にしていました】
「大学を辞めるには、保護者の同意書が必要だろ? 君は当時、未成年だったはずだし……」
【母が出張で外国に居る間に、父に書いてもらいました】
「……お母さんは、再婚されているということ?」
【はい】
「今のお父さんに『お母さんには秘密にして』と、頼んだということになるよね?」
【そうです】
「何故そんなことを?」
 彼女は、筆談具の画面の文字を消したきり、動かなくなってしまった。答えに困っているのだろう。
「無理に、答えろとは言わないよ。話したくないなら、それでもいい」
【もっと、大きな紙はありますか?】
「……もちろん。少し待ってて」
 私は3階に上がり、アトリエのクローゼット内を物色し、岩くんの子ども達と絵を描いて遊ぶ時や、弟が来た時に筆談に使う、未使用のまま年が変わってしまった古いカレンダーを取り出した。それを持って、すぐにリビングに戻る。

 大きな紙に、彼女が短文や図形を駆使して書いた半生は、壮絶なものであった。まるで、複雑怪奇な小説の内容をフローチャートで見ているようだった。
 その図によると、彼女が14歳の時、実父である藤森博士が急死した。その後、彼女の母親は、彼女を大学に行かせるため、複数の男性と交際しながら再婚相手を探した。彼女が16歳の時、母親は その中の一人と再婚し、彼女には「新しい父親」が出来た。しかし、再婚後も、母親と他の男との関係は続いていた。
 再婚相手に選ばれた男性は地方公務員で、安定した収入があり、穏和な性格なのだという。借金やギャンブル癖があるわけでもなく、特に何の問題も無い人物で、姓を「藤森」に変えることも、あっさり受け入れたという。
 一方、再婚相手とならなかったほうの男は、月収こそ高いが酒癖が悪く、酔うと暴力的になるだけではなく、勤務先でも若手への体罰を繰り返し、問題視されていたのだという。
 その男は、彼女の母親が他の男と再婚した後でも、再婚相手の留守を狙って家に押しかけてきては、母親ではなく娘のほうに肉体的な関係を迫ったり、腹いせとして暴行を加えたりしていたというが、母親はそれを黙認した。更には、娘に手を出した男から「慰謝料」という名目で金を巻き上げ続けた。暴行と集金が複数回に渡ったということは、実質的に「金さえ払えば、好きにしていい」という構図が、出来上がっていたことになる。しかし、そのことを新しい父親や、他の大人に口外することは固く禁じられていた。母親は「その金を、大学生活の足しにすればいい」「あと数年の我慢」という、恐ろしい考えの持ち主であった。娘の苦痛は度外視されていた。
 彼女は、理不尽な扱いに ひたすら耐えながら、学問や就職のためではなく「家を出るために」遠方の大学を選んで進学した。
 しかし、入学直後、環境の変化によるものか、溜め込んできたストレスが偶然そのタイミングで【限界】に達したのか、彼女は、ある日 突然 声が出なくなった。大学生活に支障が出るようになったため、また、今度こそ母親の管理下から逃れるため、彼女は大学1年目のうちに母親の海外出張中を狙って新しい父親に全てを打ち明け、彼の同意によって大学を中退した上で、母親との連絡を絶った。
 新しい父親は、彼女の意志を尊重して母親には中退のことを隠したまま、彼女への仕送りを続けてきたのだという。
「それ……加害者の男は、捕まった?」
【分かりません】
「どうして……!?」
【警察に届けたかどうか、私は知りません】
被害者である彼女が「知らない」のなら、新しい父親は、届けていないのだろう。
(意図が解らない……)
金だけは送ってやるが、法的措置は何もしないというのか?……実子ではないからか?
(離婚せずに『父親』として金を送り続けるだけマシか……)
 あまりにも理解しがたい家庭環境の話に、私は目眩がし始めた。我が家も相当 狂っていたが、ここまで酷くはない。少なくとも、私は性的な虐待は受けていない。
「藤森ちゃん……。この際だから訊いてしまうけれども、君が、自分の腕を傷つけたのは……実家に居た頃かい?」
彼女は、私の問いには答えられず、再び ぼろぼろと泣き始めた。
 私は「ごめんよ」としか言ってやれず、かつて悠介にしたのと同じように、背中をさすってやるくらいしか出来なかった。
「今日は、昼ごはんなんか要らないよ……落ち着くまで、休んでいればいい」
彼女は、しゃくりあげるように泣いているばかりで、何も書けずにいる。
 落ち着いたら水でも飲ませてやろうと思いながら、私は、ずっと彼女の背中や肩をさすったり、軽く叩いたりし続けていた。……岩くんは、これが凄く巧い。彼の手で背中に触れてもらうだけで、私達はとても気持ちが落ち着く。
 彼が言うには「東洋医学的には、背中をさすることも【養生】の一環」であるそうで、心地よいと感じる力加減やツボ、速さやリズムには個人差があるが、彼は、それの見極めも非常に巧いのだ。私だけではなく、夫も幾度となく彼に救われてきた。
 私は、今、岩くんの手技を真似ている。


 落ち着いてきた彼女に水を飲ませてやってから、私は「しばらく、うちに住み込みで働いてみるかい?」と提案した。
「此処なら、お母さんも そうそう簡単には来ないだろ……」
本音を言えば「お母さん」などという親しみの込もった呼称を用いたくはない。悪魔のような女である。
 彼女が望むなら、私は本気で彼女を母親から引き離してやるつもりだ。
 彼女は、大きな紙の片隅に「悠介さんからも、許可を もらわないといけません」と、走り書きをした。
「許すに決まってるよ。……あいつも、初めはそんな感じで、ここに来たんだ」
沈黙で応えた彼女を前に、私は更に言葉を継いだ。
「悠介は……昔、病気で すごく身体が弱っていた時に、両親から酷い扱いを受けて、ここに逃げてきたんだ。……今はもう、両親とは まったく接触は無いよ。絶縁状態だ」
 夫の知識と経験が、彼女の道標となることを願う。


 私は、昼休みの時間帯を狙って、3階のベランダで煙草を吸いながら、夫に電話をかけた。彼に「藤森ちゃんを我が家で匿う」という要点だけを伝えた。話を受けて、彼が同僚達の居る喫煙所から、静かな駐輪場に移動したのが、物音で判る。
「……やっぱり、彼女は実家でDVを受けていたよ。加害者に、あのゲストハウスに泊まっていたことを知られてしまって……今日、逃げてきた」
「はぁ!?……え、怪我は?」
「怪我は無いよ。ただ……精神的に、激しく動揺しているから、無闇に刺激しないでやってほしいんだ」
「……わかった」
彼は「出来るだけ早く帰る」と言って、電話を切った。

 夫は、予想以上に早く帰ってきた。会社には「妻の体調が悪い」と偽って、早上がりをしてきたのだという。自宅の最寄駅に着くなり、LINEを送ってきた。
 日頃の癇癪かんしゃくには手を焼くが、頭が切れる彼は、このような緊急事態には とても機転が利く。実に頼もしい。
 玄関に入ってくるなり、夫は至って真剣な顔で彼女について尋ねた。
「藤森ちゃんは?」
「晩ごはんを作ってくれてるよ」
「……独りで買い物とか、行かせらんねえな」
「そうだね……。当分、買い出しだけは私が行こうか」
「親父さん、亡くなってるんだろ?……DVの犯人ってのは、義理の父親か?」
彼は、靴を脱ぎながら訊いた。
「……加害者は、母親と、その交際相手だ。義理の父親は、その事実を何年も知らなかった」
私は、万が一にも彼女の耳に届かないように、声を低めて答えた。
「ってことは…………旦那が死んで再婚した後に、不倫の相手を、家に連れ込んでたのか!!?……無茶苦茶だな!!」
少し声が大きいが、飲み込みが速いのは助かる。
「母親が、まだ近くに居るはずだから、気を付けないと……」
「今更、何しに来たんだよ?」
「そこまでは、解らないけれども……私としては、彼女を守ってやりたいよ」
「俺だって、そうさ」
「……まぁ、何にせよ、早く風呂に入ってきなよ」
「おう」

 その日から、1階の和室は彼女のものになった。


次のエピソード
【21.遠雷】
https://note.com/mokkei4486/n/n5c4214d5905b

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