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小説 「吉岡奇譚」 21

21.遠雷

 お気に入りの藤森ちゃんとの「同居」が始まったが、夫は、彼女の着任当初のように、浮かれてはいない。
 毎日、別人のように真面目な顔をして仕事に行き、目を回すこともなく、正気を保ったまま帰ってくる。
 彼女が見ている前で、物に当たることは無い。

 私は、一人であのゲストハウスに赴き、置きっぱなしになっていた彼女の私物を引き取った。宿の主人は、事情をよく知っている。荷物は、貴重品も含めて、全て大切に保管されていた。
 受付で、荷物に加え、彼女に宛てた主人直筆の手紙を渡された。
「先生……あの子を守ってやってくれよ」
「もちろんですとも」


 彼女は、相変わらず完璧なまでに きちんと仕事をしてくれるが、ほとんど笑わなくなった。代わりに、独りで泣いている姿を、よく見かけるようになった。私は、特に声かけはせず、好きなだけ泣かせてやりたいと思った。
 また、私は彼女に大学ノートや例の古いカレンダーを与え「好きなだけ書きなさい」と言った。今の彼女に必要なのは【気持ちの整理】と【過去との決別】だと考えたからである。
「ノートのほうには、自分の気持ちでもいいし、好きな言葉でもいいし、素敵な思い出でもいいし……忘れたくない事を、たくさん書き留めておくといいよ。
 カレンダーのほうは……忘れてしまいたい事や、どうしても赦せない事を、どれだけ汚い言葉を使ってもいいから、気が済むまで書いて、書いて、書いて、後でシュレッダーにかけてしまうといい。
 私は……子どもの頃から、ずっと そうしてきた。……それが、今の仕事に繋がった」
 詳しい経緯は話さなかった。しかし、彼女は素直に聞き入れて実践してくれた。
 私は、アトリエでは当分 使う予定の無いシュレッダーを、和室に移した。
 長時間 資料室に篭って書いた何かを、和室で黙々とシュレッダーにかける彼女の姿を、頻繁に目にするようになった。


 加害者である母親の居場所が判らないと、不安で、おちおち出歩けない。私は、彼女に義父の連絡先を訊き、平日の日中を狙って接触を試みた。アトリエのドアを閉めきり、電話をかける。
 良平という名の義父は、見知らぬ番号からの着信でも、すぐに応じた。
 私は、自身が絵本作家であることと「彼女の雇用主である」という点しか話さなかった。居場所の特定に繋がるため、彼女の担当業務は伏せた。彼女が「母親に殺されるかもしれない」と怯えていたことを話し、事実関係について確認したいと告げた。
 彼は「私に分かる事なら」と応じた。
 真っ先に確認した「母親の居場所」については、自宅のある東京都だということで、ひとまず安堵した。(私の住まいは奈良県内にある。)
 私は、過去のDVについて本人から聴いたことを話し、加害者の男の居場所を尋ねた。
 義父は「そいつは、死にました」と答えた。訝しむ私に、彼は「娘が大学を辞めた直後に、勤務先の工場で感電死した」と説明した。
(だから警察に届けていないのか……?)
 無理心中や交通事故なら「容疑者死亡」でも立件され、容疑者の遺族に損害賠償が命じられることもあるはずだ。とはいえ、傷害や強制わいせつは、殺人とは扱いが違うのだろう。また、事件そのものが容疑者の死後に発覚した場合、どうなるのか……私には解りかねる。
「娘さんには、加害者が死亡したことは伝えていないんですか?」
「もちろん伝えましたよ」
「把握されていないようですが……?」
「そんなはずは……」
 いずれにせよ、今の私がすべき事は、彼女を母親の悪意から守ることである。
 義父は、妻が娘の滞在先を特定した上で押しかけたことを知らなかったのだと言い、初めて会話をした私に「離婚しようかな……」と言い始めた。私は内心では賛同した。
 しかし、彼は迷っているようだった。
「離婚してしまったら……私は彩月さつきさんの『父親』ではなくなります。彼女を守る権限を失います……」
 彼の良心は、生きている。
 仮に離婚をするのなら、それまでに娘との養子縁組を済ませておけば、彼は「父親」であり続けられる。私がそれを口に出そうとした矢先、彼は予期せぬことを語り始めた。
「吉岡先生と仰いましたか?……どうか、娘を宜しくお願い致します。……私は、仕送りくらいしか してやれない、あまりにも無力な『父親』です。いちばん肝要な時に、何もしてやれなかった。気付いてやることさえ、出来なかった……。今の娘にとっては、貴方こそ、最も『父親』に近い存在かもしれない」
どうやら彼は、私の名前と声質から、私を「男性だ」と判断したらしい。
 しかし、わざわざ訂正する必要も無い気がした。
「私は、良平さんこそ、ご立派な お父様だと思いますよ」
「滅相もない……」
 今後、夫婦の間でどのような話し合いが行われるかは分からない。だが、私の「彼女を母親から引き離してやりたい」という意志に、義父は理解を示した。


 電話を切った後、私はすぐ2階に降りて、台所に居た彼女に「母親は地元に居るらしいから安心しなさい」と伝えた。加害者の男が事故死したことについては、彼女は「そんな連絡を受けたかどうか、憶えていない」と答えた。
 自分の身体に起きた異変や、経済的な事情のことで、頭が一杯だったのだろう。仕送りを受けていたとはいえ、自分でも懸命に働いて稼いでいたのだ。記憶が欠落していても、無理はない。
「それじゃあ……いよいよ、アパートを探してみるかい?」
 彼女は「休日」であるはずの日にも、いつも通り働こうとする。私や夫は、何度でも「休日なんだから、何もしなくていい!」と言うのだが、彼女は従わない。タイムカードを押さずに、無給で 出勤日と同じ事をしようとする。
 母親のことを警戒してなかなか出歩けなかったからというだけではなく、やはり「勤務先で寝泊まりする」という状況下では、少なからず気を遣ってしまうのだろう。
 私は、彼女に「プライベートタイム」を確保させてやりたかった。

 私の問いかけに、彼女はなかなか応えなかった。迷いや恐れがあるのだろう。
「車が必要なら、協力するよ」
 調理中に手を止めて会話に応じてくれていた彼女は「そろそろ仕事に戻りたい」という意思表示のためか、いよいよ何も書かなくなった。
「……ごめんよ。仕事の邪魔をしてしまった」
私の謝罪にも応えず、再び包丁を手にしようとした瞬間に、その場で固まってしまった。
 やがて しゃがみ込み、そのまま、床に腰を降ろした。
「どうした?……目眩がするかい?」
調理台の引き出しの取っ手を掴んだまま、彼女の体が、ぶるぶると震え出す。
 私は、彼女の頭のすぐ近くに置かれている包丁を、万が一にも落ちないようシンクの中に置いてから、しゃがんで、彼女の背中に手を添えた。
「……吐き気は、するかい?」
彼女は首を横に振ったが、震えは止まらない。次第に、顔が紅潮して涙が出始める。
「後は私がやるから、横になったほうがいいね。……念のため、熱を測ろう」
心労がピークに達してしまったか、過去の記憶の欠落に気付いて混乱しているのだろう。
 ひとまず、リビングのこたつで休むよう彼女に促し、好きに使えるよう座布団を集める。
 こたつに入って横になっている彼女に、3階の寝室から持ってきた体温計を渡す。
 体温計が鳴るまでの間に、私はシンクから拾い上げた包丁を洗い、切りかけの春菊を全て切ってしまう。何を作ろうとしていたか見当は ついているので、次の工程に着手する。
 やがて体温計が鳴り、私も温度を見せてもらう。表示は「37.2℃」である。
「上がってくるかもしれないから、ゆっくり休んでて」
彼女は、何も言わない。
「1階で寝てくれてもいいよ」
 今は、応えなど、無くとも構わない。
 私は、彼女が好きな場所で飲めるよう水筒に冷たい茶を入れて、こたつの上に置いた。(私が、外出する時には必ず持ち歩く水筒である。)
 結局、私が台所に居る間じゅう、彼女は こたつから動かなかった。

 夫が帰宅するより先に、彼女は私が作った汁物だけを食べて、早めに就寝した。私は、夫のためにストックしてあるスポーツドリンクを、数本渡しておいた。


 帰宅した夫に、彼女の体調が良くないことと、義父との電話の件を報告した。
「死にやがったのかよ。……天罰だな」
夫は今、2度目の夕食を摂っている。私は、同じ こたつに入って温まる。
「彼女は、そのことを『憶えていない』というんだ」
「よっぽど大変な時だったんだろうな……」
「……今後、彼女は しばらく体調が不安定になってしまうと思うから、ゆっくり休ませてやりたいんだ」
「了解」

 夫が食事を終え、私が食器を洗う。帰宅直後に風呂に入っている彼は、あとはもう寝るだけである。
 私は、今日は これから風呂に入る。
 食器を洗い終えて、何気なくスマートフォンで時刻を見ると、夫の勤務先からメールが届いていた。例の誹謗中傷の件で、役員と主要な株主を集めて「対策会議」が開かれるらしい。そこに出席できるか否かの、確認のメールだった。(平社員である夫は、会議には招集されていないようだ。)
 私は、もちろん「出席」で返事を出した。
 初めに見つかった掲示板に関しては「書き込みの実行犯が特定され、解雇された」という連絡を受けているが、2つ目以降のことは何も知らされていない。会議当日、何らかの報告・説明があるのだろうか。
 私としては、あの悪質な書き込みを続けた犯人達にも【天罰】が下ることを、願わずにはいられない。


次のエピソード
【22.静養】
https://note.com/mokkei4486/n/n1f40e50aab47

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