小説 「僕と彼らの裏話」 10
10.帰りを待つ日々
ある日、僕は珍しくスーツを着て出かけると言う悠介さんから依頼され、彼のネクタイを結んでいた。
基本的に自宅では義手を着けない人だけれど、この日は朝から「礼装用」のものを着けている。黒色が基調のカーボン製で、見た目は まるで「ロボットの手」だ。(僕はそれを、純粋に「かっこいい」と思う。)5本の指は繊細な動きが可能で、会食時のテーブルマナーに対応でき、更には防水仕様の 高級品だ。(ユーザーの練習次第で、卵を割ったり、ピアノを弾いたりすることも出来るらしい。)
彼は今日、無事に退院できた哲朗さんの自宅に、改めて謝罪に行くのだ。
先生は、まだ留置場に居る。
主治医とは別の精神科医による鑑定を受けているとかで、勾留が長引いている。
「行ってきます」と言って出かけていく彼の背中は、とても小さく見えた。
倉本くんは、悠介さんよりも早い時間に出かけてしまった。彼にとっては「動物園で、サイが餌を食べているところを見る」というのが非常に大切な習慣らしく、それを見に行く時間帯にも、強い こだわりがある。
彼は最低でも週2回は、朝からサイを見に出かける。そして、必ず外食をして帰ってくる。
先生からは「自由に させてやってくれ」と指示を受けている。
昼過ぎになって、倉本くんが帰ってきた。玄関で、鍵を開けて迎え入れる。
「おかえり」
相変わらず、応えは黙礼である。
全身から牧場のような匂いをさせながら、まるで「一仕事終えた」かのような満足感を漂わせている。
彼は その後すぐ風呂に入り、上がったら2階にやってきた。
テレビを観ていた僕の側に正座して、視線を泳がせながら「あの……あの……」と、何度か呟いた。
彼のほうから僕に声をかけてきたのは、初めてだ。僕は、ささやかな喜びを、そのまま顔に出して応じる。
「どうした?」
「悠さん……悠さんは……」
上体をフラフラ揺らしながら、同じ名前を何回か繰り返し、その先は、どうしても出てこないようで、僕が「夕方には、帰ってくるよ」と、大きめの声で言ってやると、数回 小さく頷いた。
風呂に入って、更には階段を上がってきたためか、彼は少し息が荒い。
「何か飲む?」
訊いてみても、応えは無かった。黙って空中を見つめたまま、眉をひそめたり、首を捻ったりしている。彼だけに、何かが視えている気がする。
僕は独断で冷たい茶を用意して、食卓に出した。
「い、い……」
「どうぞ」
彼は「いただきます」が言えないまま、茶に口をつけた。カップを持つ手が、小さく震えている気がした。
一気に飲み干して、更に苦しくなったのか、ふぅふぅと荒い息をしている。
先生なら、こういう時、背中をさすってやるのだろう。
「脚、崩しなよ」
彼は、素直に応じる。
「肩、揉んであげようか?」
以前、彼が悠介さんの肩を揉んでいたことを思い出し、他者にそれが出来るなら、彼自身も それを厭わない気がした。
明確な返事は無かったけれど、嫌がる素ぶりは見られないので、僕は半ば独断で彼の後ろに回り、そっと肩に触れた。
「うわぁ、ガッチガチだね……!」
これだけ背中が硬ければ、深い呼吸は出来ないし、胃も膨らまないだろう。
僕の知識など哲朗さんには到底及ばないし、手技も大したことはないけれど、身体のどこが硬ければ辛いのか、どこを ほぐせば楽になるのか、それくらいは知っている。
倉本くんは僕や先生よりも髪が長く、肩に届いている。それを巻き込まないよう気をつけながら、背中や首を揉みほぐしてやるうちに、呼吸が整ってきた。
時々「うっ……」と、小さな声が漏れる。凝りすぎて、ほぐすのが痛いのだろう。
僕は、特に構わず、自分の気が済むまで ほぐしてやることにした。彼には『練習台』になってもらう。
やがて、彼は前を向いたまま「先生は……」と、明らかな口話をし始めた。
「ん?」
「先生は……そんなに、ひどい怪我なんですか?」
勾留のことを知らされていない彼は、先生は怪我で入院中だと思っているようだ。「面会できない」と聴いて、生死に関わるほどの重傷であると捉えているのだろう。
僕は一旦手を止めて、正直に答えた。彼の耳元で、驚かせない程度の声量で、ゆっくり話してみた。
「……ごめんよ。僕も、よく知らないんだ」
あまり詳しい説明は受けていないけれど、彼は「低酸素状態」と「劇薬による中毒」の後遺症で、脳と消化器に障害がある。飲食と、口話が苦手だ。嘔吐する頻度も高い。
口元を見せながら話したり、耳元で語りかけたりしても、脈絡のある「会話」が成立しないことも多い。彼は聴覚障害があるだけではなくて、日常的に幻聴が聴こえているというし、重度の記憶障害がある。
それでも、今回は、僕の言ったことが通じた気がする。いつになく流暢な口話が返ってくる。
「悠さんでも、会わせてもらえないと……聴きました……」
「そうみたいだね……」
僕は、先生を真似るつもりで、彼の背中に手を当てる。彼の心境が少しでも落ち着くように、ごく軽く叩いてみる。
「でも……僕は、先生を信じて、待つよ。何日でも」
彼は、頷きで応えた。
彼が また黙り込んでしまったから、僕はマッサージを再開した。少しでも、緊張が ほぐれることを願った。
僕自身が満足できるだけの施術を終えたら、彼は、きちんと「ありがとうございます」と口話で言ってくれた。
僕は、まだ一度も彼の笑顔を見たことが無い。しかし、それは先生や悠介さんも同じだという。
夕方。悠介さんは、帰ってくるなりネクタイを緩め、玄関に座り込んでしまった。気疲れが「限界」に近いようで、自分の頭を撫で回しながら、ため息ばかり ついている。
「お疲れ様でした」
僕は、他には何も言えなかった。
しばらく休んだら、彼は「風呂に入る」と言って脱衣所に消えていった。
結び目が残ったままのネクタイを託された僕は、黙々と それを解いた。
彼は風呂から上がって部屋着に着替えたら人心地が ついたようで、台所に立つ僕の横で棒付きのアイスを食べながら、哲朗さん宅でのことについて話してくれた。
「もう、傷が そんな目立たなくなってて……見え方も、普通に戻ったみたいで……」
「あぁ、良かったです……!」
「奥さんも、前ほど怒ってなくて……【示談】成立しました……」
「……良かったです。本当に」
それならば、少なくとも【傷害】に関しては、前科とは ならない。
「俺、もう……腰が抜けそうっす……」
「お疲れ様でした」
アイスを手に、泣きそうな顔をして、それでも肩で笑っている彼を見て、僕も体じゅうの”妙な力”が 抜けた気がした。
彼は、リビングで背中を丸めている倉本くんのもとへ向かった。
「和真!……またゲームか?」
彼は、スマートフォンでゲームをしていたようだ。
悠介さんは、右手にアイスを持ったまま、左の肘を倉本くんの肩に置いた。そうやって一緒に画面を見ながら、あれこれ訊いている。
倉本くんが、僕のところにまでは届かない小さな声で 何かを答えるたびに、悠介さんは「マジか!」とか「すげぇな!」と、声をあげて笑う。
彼が、すっかり「優しい兄貴分」になっていて、なんだか不思議な感じがした。同じ会社で、歳上の僕を「ポンコツ」呼ばわりしていた頃の面影は、もう どこにも無い。
人は、変われるのだ。
僕の退勤時間が迫った頃、タイムカードの近くにあるカレンダーを前に、僕は悠介さんと今後の予定について少しだけ話した。(倉本くんは、1階に居る。)
先生が いつまで ご不在となるかが分からない今、彼のスケジュールこそが、僕が出勤すべき日を決める基準である。
彼のシフトは概ね月ごとに決まるけれど、体調や製品の納期次第で、頻繁に変わる。職人の給与は歩合制らしく、勤怠に関しては、かなり融通が利くようだ。
日々、スケジュールの確認が欠かせない。
先生の「入院」のことは、行方不明時に連絡した工場長と社長にのみ、話しているという。
しかし、彼の勤務先も、今かなり不安定な状況にあるらしい。
勤続40年超の前専務の定年退職に伴い、他社から引き抜かれてきた「社長の婚約者」が新しい専務となり……その新専務と、社長の兄との関係性が、良くないのだという。(社長の兄は、いずれは常務となるはずの人物である。)
すごく、嫌な予感がする……。
「俺は、いつだって『社長の味方』っすよ」
悠介さんは、どこか得意げに言う。
「派閥争い、ですか……?」
「んー……『内輪揉め』っすかね?」
(それ【社外秘】っしょ……!?)
「まぁ……何でも良いんすよ。会社が生き残って、俺達が飯を食えるなら……」
彼は、本当に変わった。以前の彼なら、社長に深く感情移入して、敵対する人間のことを ぼろくそに扱き下ろしていただろう。
「あ、あの……悠介さん」
「何すか?」
僕は、その時 初めて、婚約者の存在を彼に打ち明けた。そして、彼女の脚のことを、初めて第三者に話した。(先生が何か話しているかもしれないと思っていたけれど、彼は『初耳』だったようだ。)
そして、僕は「彼女自身が望んだら」と前置きした上で、彼が日々愛用している義肢を作った職人を、紹介してやってほしいと頼んだ。
彼は、快く聞き入れてくれた。
「ありがとうございます」
「……“なんもなんも“っすよ」
普段なら僕が言う「なんもなんも」を、初めて彼が口にした。
今、彼と こうして、まるで昔からの友人のように笑い合っていることが、やはり不思議で ならなかった。
退勤の時間が来るまで、僕らは「婚姻」の話で盛り上がった。
先生が留置場に居る今、些か「不謹慎だ」とは思いつつも……彼女と先生が当たり前のように会える日が来ることを、願わずには いられなかった。
次のエピソード
【11.彼女の秘密】
https://note.com/mokkei4486/n/ne140eb75b43d