小説 「吉岡奇譚」 5
5.悪夢
私は社員寮に住んでいた。にも関わらず、私はあの頃【孤独死】寸前であった。ゴミにまみれて寝起きしながら、嫉妬と憎悪に狂った上司による、退職前の「引継ぎ」とは名ばかりの、極めて差別的な侮蔑と嘲笑を浴びせられるためだけに、職場に通っているような有り様だった。
充分な酸素濃度すら確保できない部屋に軟禁され、酸素欠乏による「奇行」や、繰り返されるケアレスミスを、指をさして嗤われ続けた。(酸素欠乏は、脳の海馬に甚大なダメージを与えるため、記憶に障害が出る。)更には、業務とは明らかに無関係な、出生地や容姿、交友関係、精神科における診断名、セクシャリティー……すべてを理由に否定され、罵倒され、私は もはや『人間扱い』されていなかった。私が学んできた15年間は徹底的に全否定され、狂った環境下で、幼稚な茶番に付き合わされ続けた。
時には、悪意ある上司に雄豚をけしかけられ、その牙で、私の脚には穴が あいた。上司は「そこから腐ればいいのに!」と、手を叩いて嗤った。(幸い、腐りはしなかった。とはいえ、その時の傷は今も残っている。)
しかし、周囲の人々の認識としては「精神科なんぞに通っている【異常者】のくせに、つまらない意地を張って一般枠の正社員のまま居座っているおまえが悪い」という、至極冷たいものが、おそらく多数派であった。
私の身に起きたことを【人権蹂躙】と捉える者は、おそらく居なかった。
私の「奇行」や発言は、彼らにとっては『娯楽』で、劣悪な労働環境に起因する健康被害とは見なされなかった。
実に心無い彼らは、まるで動物が被写体であるかのように、私の言動を撮影あるいは録音し、インターネット上で晒し、ラジオに投稿した。メディアは容赦なく それを放送し、ろくでもない加害者集団のモラルについて言及する者は居なかった。「頭がおかしい」私だけが、悪者だった。
しかし、どれだけ「動物みたい」になっていても、当時の私には『休職』とか『退職』という発想が無かった。そんなものは「万死に値する」と思っていた。
もはや【生きた人間】としての適切な扱いを受けることが出来ない自分を、私は、ずっと身体の外から見下ろしていた。我が身に起こる全てが「映像」に等しかった。
(どうして、私は死なないのだろう……?)
私は、今にも血管が切れるのではないかと思うほど頭がフラフラしているのに、自身が力尽きないことが不思議でならなかった。
勤務先では自分を「映像」として眺め、毎晩、仕事から帰ってくると、唐突に体の感覚が戻ってくる。全身が、痛い。特に頭が、痛くて、熱くて熱くて、はちきれそうで、坊主頭に近いような短髪にしていないと、耐えられなかった。しかし、人々は女の私が短髪であるというだけで、奇異の目で見た。そして、明らかに性差別的な意図をもって侮蔑した。「頭が熱い」という訴えを、聴き入れる人は、どこにも居なかった。
一日の終わりは、大量のビールと睡眠薬を飲んで、その日の記憶を吹き飛ばす。行けば死ぬほど罵倒されながら こき使われ、獰猛な雄豚のいる檻に放り込まれるのに、心身を休めるための休暇は「人手不足」を理由に、許されない。多量の薬を飲む以外に、苦痛を緩和する術は無い。
(どうして、私は死なないのだろう……?)
どれだけの薬と酒を飲んでも、心臓は懲りずに動く。肉体は出勤をやめない。……やめることは、許されない。
私は【先進国】で生きる【人間】だったはずなのに、まるで家畜か奴隷のような扱いを受けながら……勤務先で本当に倒れても、救急車すら呼んでもらえなかった。そして、どうにか自力で行った病院で、医師に どれだけ不調を訴えても「何を言っているのか解らない」と、嗤われるばかりであった。
誰一人、私を【福祉】に繋がない……。人々は、私の病態を面白おかしく語り継ぎ、下劣な動画のネタにする。
故郷から遠く離れた地で、私は、いつからか【人間】ではなくなっていたようだ……。
加害者集団の下卑た嗤い声に混じって、どこか遠いところから「諒ちゃん!……諒ちゃん!」と繰り返す、誰かの声が聞こえる。よく知っているはずなのに、思い出せない……。
「諒ちゃん!」
声がはっきりと聴こえ、目を開けると、夫が私の肩に触れていた。心配そうに、私の顔を見ている。
私は、布団から抜け出して、寝室の壁に背中を着けて座り込んでいた。
この部屋で、彼と並んで寝ていたはずだ。いつの間に起き出して座ったのか、全く憶えていない。
「諒ちゃん……どうした?調子悪いか?」
「いや……どうだろう……」
分からない。どこかが痛かったり、身体がだるかったりはしない。むしろ、身体の感覚が無い。尋常ではない量の汗をかいていることと、息が苦しいことだけは分かるが……夫が触れているはずの肩や、壁や床に着いているはずの箇所に、何も感じない。
彼は、私がいつも起床直後に着ている室内用の上着を渡してくれた。
「ろくでもない夢を見た……」
上着を羽織りながら、それしか言えなかった。
正直、寒くはない。寒さも、暑さも、感じない。
「あの会社の夢だろ?」
どうして解るのだろう?それが分かるような、寝言でも言っていたのだろうか。
「それ、もう終わったんだよ。諒ちゃん……」
彼のほうから抱き寄せてくれるのは、非常に珍しい。
彼の体の温かみが、感じられるようになってきた。身体の感覚が戻ってきたのだ。彼に背中をさすってもらううちに、今の自分の暮らしぶりを、徐々に思い出してきた。
衛生的な家で、大切な家族と暮らしている。ここには、充分な酸素がある。ゆっくりと時間をかけて、温かいものを食べることが許される。仕事の進め方を、自分で決めることが出来る。
今の私には【生きる権利】がある。
彼の身体は、温かい。
「……悠介。仕事に遅れるよ」
彼は、私から離れて、時計を見た。
「俺、今日休むわ。心配だから」
「そうはいかないだろ……」
「駄目だ。ここで容赦なく出勤したら、俺も『ゴミクズ野郎』共の仲間入りだ」
「今日は坂元くんが来るから、大丈夫だよ」
「俺、今日 出勤したら、怪我すると思う」
「……それは困るな」
仕方ない。休んでもらおう。
彼が体温計を渡してくれた。それを腋に挟む。
(私は、何を口走ったんだろうか……)
体温計が鳴るまでの間に、彼は自分の布団を畳む。
幸い、平熱だった。
「諒ちゃん。今日は、何も書いちゃ駄目だ」
平熱だったにも関わらず、私は『安息日』を言い渡された。
彼と結婚する前。まだ、彼を「友人」と呼んでいた頃。私は、3階のアトリエで作画中、今朝と同じように過去の記憶に苛まれ始め、やがて熱を出し……気分転換と水分補給にと2階へ降りた時、偶然そこに居た彼の発言と、頭の中の悍ましい記憶や差別的な幻聴を混同し、彼を、記憶の中の「加害者集団の一味」と見なしてしまった。彼を一方的に怒鳴りつけ、更には複数回殴った。それでは飽き足らず、首を締めたかもしれない。私は、積年の憤りや憎しみを、当時この家で「静養中」であった彼に、ぶつけてしまった。
私は、無抵抗な彼に罵声を浴びせながら暴力を振るう自分の姿を、やはり身体の外から見下ろすことしか出来なかった。自身の衝動的な暴行を、理性によって止めることが出来なかった。
その直後、彼は外に逃げて……事故に遭った。
私の分の布団を畳み終えた彼に、私は問いかけた。
「君は、どうして……こんな、ろくでもない人間が『好き』なんだい?」
「どうしたんだよ」
「私は……もはや、まともな人間ではないし……君を、幾度となく傷つけた……」
「…………何、言ってるんすか!先生!」
口調が変わった。昔の話し方だ。
「先生は、俺を救ってくれたんすよ!……忘れたんすか?」
相変わらず床に座り込んだままの私の側に、彼は再び座った。
「よく、陽の当たる所に、俺を連れ出して……こうやって、背中を……」
そう言って、彼は また私の背中をさすり始めた。
(あぁ……そうだったな)
私は、彼が酷い うつ状態に陥っていた頃、ハウスキーパーの坂元くんと交替で、彼を散歩に連れ出し、運動と日光浴をさせていた。
当時の彼は、事故で片腕を失くしたことよりも、内耳の病変による目眩と、過去の勤務先での言動に対する【後悔】に、苦しんでいた。休職中、毎日のように涙を零し、時には自死をほのめかした。彼は、自身の病や事故について「天罰だ」と捉え、犯した過ちに対する【後悔】と、自身が育った家庭環境に関する辛い記憶に、心を囚われていた。
私は、彼が涙を流していたら、時に彼の肩を抱き、時に背中をさすり、思いつくままに言葉をかけた。私は、彼を失いたくない一心であった。
「悠介。どうした。……疲れたか?」
自身の名を、私に向けて発しているということは……彼は今、あの当時の私を真似ているのだろう。
「よしよし……。熱は無いよな?」
かつて私がしたのと同じように、彼は、私の頸や額に触れる。
「……あそこまでしてくれた人、他に居ねえよ」
(坂元くんが居るじゃないか……)
私は、黙っていた。
「俺、諒ちゃん居なかったら、死んでたよ……!」
(私は、そんな大層な人間じゃない……)
「……悠介。今日は、一緒に散歩に行こうか」
「お。行く行く」
「まずは、朝ごはんを食べよう」
「そうだな」
2人で2階に降りて、私は台所で、坂元くんが前日に用意してくれた朝食を温める。味噌汁や おかずを再加熱するくらいなら、私にも出来る。
彼の味噌汁は本当に美味しい。飲むたびに、その温かみが体に染み渡り、力が湧いてくるような気がする。特に、朝には味噌汁が欠かせない。
彼が作るものを食べるようになってから、私は、消化器系の調子が良くなったし、よく眠れるようになった。必要な医薬品が減った。
過去がどれだけ凄惨でも、今の私は幸せだ。ろくでもない一面を受け容れてくれる寛大な夫が居て、毎日の食事は美味しい。
毎日、生きて太陽の下を歩くことが出来る。今の私には、一人の【人間】として、健やかに生きて、自由に出歩く権利がある。
【悪夢】は、終わったのだ。