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小説 「吉岡奇譚」 11

11.新しい風

 藤森ちゃん初出勤の前日。坂元くんが予定よりも早く復職した。
 玄関で挨拶を交わした後、彼は復職を早めた理由を告げた。
「新人さんが来る前に、現場の状況を確認しておきたくて……」
「とんでもない責任感だな。……無理をしてはいけないよ。寝たければ、岩くんみたいに寝ればいいから」
「……恐れ入ります」
彼は、かなり痩せた気がする。

 2階で、彼が休職していた間の食費の管理やパソコンへの入力の状況について報告した後、すっかり見窄らしくなってしまった台所を見せた。
 彼は、真っ先に冷蔵庫の中身を確認し、続いて、常温保存の野菜と、缶詰や乾物の在庫を確認する。
 病み上がりの彼は、ちょっとした歩行や しゃがみ込みで、すぐに ふぅふぅと息があがる。
「明日……新人さんを連れて、買い出しに行ってきます。今日は……在庫処分の日に、してしまいましょう」
「お任せするよ」

 昼食時。久しぶりに「まともな食事」にありつけた気がする。在庫処分が主目的とは思えないクオリティーである。
「……随分と、気疲れしているような顔つきだよ」
「今日、一ヵ月ぶりくらいに……電車に乗りましたから」
彼は、電車や人混みが非常に苦手である。
「自宅の近辺だけで、用事を済ませていたのかい?」
「そう、ですね……」
「病院には行ったかい?」
「内科だけ……」
「心療のほうは?」
「予約の日まで、まだまだ日数がありますから……」
彼は、心療内科には、ほぼ「薬が切れたら貰いに行くだけ」である。主治医とは、本当に最低限の会話しかしないという。
「僕は、主治医よりも、先生や哲朗さんと話しているほうが……落ち着きます」
「確かに、岩くんは対話も施術も巧いけれども……。私達は、処方箋を書けないよ」
「処方薬なんて、そうそう変わりませんよ。僕の場合……」
私は、せっかくの機会なので、彼に言ってやりたいことがあった。
「私は……君も充分、話を聴くのが巧いと思うよ」
「とんでもないです」
彼は謙遜するが、私は、彼のその優しさと知識に、幾度となく救われた。

 私は、彼に岩くんの異動について話した。
「哲朗さんが、総務に……ですか?」
「次に出す話で、今度こそ『最後』になるだろうね。彼と組むのは」
「もう、ここには来なくなってしまうのでしょうか……?」
「子どもを預けに、来るとは思うよ」
「……わかりました」


 翌日。いよいよ藤森ちゃんが出勤した。予定の時刻より、30分も早く来た。
 その後、坂元くんが来るまでの間に、私は彼女にタイムカードのことや、台所のこと、金銭管理のことを、ざっくりと教えた。(見学に来た日にも、ある程度の説明はしてある。)
「もうすぐやってくる坂元さんに、何でも訊けばいいよ。ベテランだから」
彼女は、仕事用らしい小型の筆談具に【わかりました】と書いてくれた。
 それを見た私は、良い機会なので、彼女に手話の単語をいくつか教えた。最もよく使うであろう「わかりました」を筆頭に、簡単な返事や相槌、英語でいう「5W1H」に当たる単語を、実演してみせた。
「毎回、全てを書くのは面倒だろう?」
彼女は、教えたばかりの「はい」を使ってくれた。
「覚えが早いね」
 彼女は「ありがとうございます」の表現は、既に知っていたようだ。

 坂元くんが出勤してきた。新人の彼女と挨拶を交わす。
「僕、坂元です。よろしくお願いします」
昨日よりは元気そうだ。
 彼女は、何度もお辞儀をしながら、筆談具に書いた文章を彼に見せていた。
「何も、焦ることはないですよ。先生も、悠介さんも、お優しい方ですから」
そう言う彼が、いちばん優しい。
 彼は、自宅で作ってきたのだという紙の資料を彼女に手渡し、それに沿って解説を始めた。私も少し覗かせてもらったが、タイムスケジュールや、掃除すべき範囲、金銭管理に関する注意事項などが、ハウスキーパーの目線から、細かく丁寧に書かれているようだ。
「まめだねぇ……」
「とんでもないです」


 彼らに仕事を任せ、私は資料室に篭った。これまでに出版された自分の絵本を、全て読み返していた。
 岩くんとの『最後の仕事』に向けて、デビュー作から最新作に至るまでの、自身の進歩や、個々の作品に纏わる記憶を、振り返る。
 彼が編集者ではなくなるというだけで、私は作家を続ける予定なのだが、それでも、やはり彼とでなければ、ここまで良質なものは生まれなかった。それどころか、私はデビューすら出来なかっただろう。
 デビューしてから15年になるが、その大半を、彼と共に歩んできた。
(やはり、一冊だな……。一冊に、全てを込めよう。)
 次回作は、我々の【集大成】だ。
 私はクロッキー帳を開き、最低限のアイデアを書きつける。藤森ちゃんの着任記念も兼ねて「恐竜を描きたい」というのだけは決まっているが、種類は決めていないし、物語は、まだまだ浮かんでこない。
 彼女のお父様の著書を、試しに開いてみる。今では「定説」となっている、少し古い学説ではあるが、当時としては画期的な新説だった。本当に、惜しい方を亡くした。
(恐竜の、親子の話にしようかなぁ……)
 岩くんの息子も、1人は恐竜が大好きである。彼が喜ぶようなものに、出来るだろうか……。


 藤森ちゃんと坂元くんの、共同製作の昼食が出来上がり、3人で食す。
「お、やっぱり美味しいなぁ……!」
「藤森さん、器用ですよ。心配無いですね」
坂元くんに褒められたためか、彼女の顔が赤い。
「悠介は『今日は早く帰る!』と宣言していたなぁ……君達が帰るまでに、帰りたいんだと。若い女の子が来て、はしゃいでるんだよ。おっさんめ……」
「あははは……」
坂元くんが苦笑する。


 信じられないことに、夕食が出来上がる前に、夫が帰宅した。『私用』という理由で、早上がりをしてきたらしい。
「先に、風呂に入れよ」
「入るわ!……何 怒ってるんだよ?」
「怒っているつもりは無い」
連絡も無しに早上がりをしてきたことに、少し驚いただけだ。

 我が家では、結婚を機にリビングの食卓を4人用から8人用に買い換えてある。(それでも、岩くんの子が3人とも来ると、手狭である。)普段は、それを2〜3人で広々と使っている。
 1人暮らしだと、本当に「無駄に広い」としか言いようのなかったリビングが、やっと有効活用できるようになった気がする。
 ハウスキーパーの荷物置き場も、2人分に増やした。

 夕食の配膳が終わり、風呂から上がってきた夫が加わって食事が始まる。
 夫は、相変わらず「美味い」しか言わない。そして、うるさいほどに機嫌が良い。藤森ちゃんとは離して座らせて正解である。
「明日は遅いんだろ?」
「たぶん。明日からは、また いつも通りだよ……」
私の問いに、夫は がっくりと肩を落とす。
「それでも、弁当のおかず楽しみだわー!」
すぐに元気を取り戻し、テレビを眺めながらガツガツと食べる。食器は置いたまま、右手だけで、ポロポロと米や おかずを こぼしながら食べ進め、時折、大きな声で坂元くんに話しかける。
「うるさい おじさんで、ごめんよ……」
私がそっと詫びると、彼女は、手で口元を隠してクスクス笑っていた。


 この先も、このような平和な日々が続いてくれることを願う。


次のエピソード
【12.深淵】
https://note.com/mokkei4486/n/n755620af5a50

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