小説 「吉岡奇譚」 16
16.休息
詩人が滞在した部屋で執筆を進め、我ながら「良いものが書けた」という実感があった。有意義な2泊3日を過ごせた。
チェックアウトして帰宅すると、坂元くんが出迎えてくれた。私が外泊をしている間、出勤していたのは彼だけである。
「先生が ご不在の間に、稀一くんが、お友達と一緒に訪ねてきたのですが……『先生は旅行に行っている』と言って、帰ってもらいました」
「夕方かい?」
「そう、ですね……夕方4時くらいだったかと思います」
「事前に電話をする、という習慣が無いのだろうね、彼には……」
「まだ小学生ですからね……」
「まぁね」
例の3年生を連れて来たのだろうか?
翌日の午前中、数日ぶりにハウスキーパーが2人揃った日のことだった。
私は、3階のアトリエで作画を始めていた。体調の良し悪しが如実に顕れる、シャーペンでの下描きだ。(体調が良ければ順調に進むが、悪ければ描きたいものの形を捉えることすらままならない。)私は、いつも この段階で線の強弱を決める。黒インクでペン入れをした際に主線を太くする箇所は、シャーペン描きの段階で太く描く。可能な限り、彩色後の完成形が判る下絵にする。
作画中、ふいにスマートフォンが鳴った。私は、夫、弟、岩くん、坂元くん、藤森ちゃん以外の人物からのLINEは通知をOFFにしている。「鳴る」というだけで、私にとって重要な人物からの連絡だと判る。
同じ家の中に居る藤森ちゃんからのLINEだった。
【お仕事中すみません。坂元さんが、すごく苦しそうなので、すぐ2階まで来ていただけますか?】
ただならぬ事態である気がして、私は、返信せず2階に下りた。
リビングで、床に肘を着いて四つん這いになり、苦しそうに喘いでいる坂元くんと、彼を気遣って側についている藤森ちゃんを見つけた。
「坂元くん、どうした?」
側まで行くと、彼は、ぼろぼろと涙を零しながら、鼻に皺を寄せて、過換気と思われる状態に陥っていた。私の問いに答えられる状態ではなかった。
私は、初めて彼の喘鳴を聞いた。
(パニック発作か?……何かのアレルギーでなければ良いが……)
彼は、よく頭痛や消化器の不調を訴えるが、呼吸器に このような症状が出ている姿を見たことがない。
「どこかの壁に背中を着けて、座ったほうがいい……頭を起こせるかい?」
私の経験上、息を「吸う」ばかりで「吐く」ことがほとんど出来ずにいる時、物理的に背中を押さえつけて「吸い込める量」を制限してやることには効果がある。
這うしか出来ない彼を、どうにかリビングの隅に連れて行き、壁に背中を着けて座らせ、下腹部にある【丹田】の位置を教える。
「へその下、この辺りに力を込めて……まずは、しっかりと息を吐くんだ。今、君は『吸いすぎ』だ」
喉が開き、喘鳴が止まない。
「吸おうと思うな。吐く、吐く……まずは吐ききるんだ。吐ききってしまえば、あとは自然と空気が入ってくるから……」
彼の血色は悪くない。むしろ、顔は紅潮している。
「ゆっくり、ゆっくり……フーッと、口から吐いて……まだ出せるはずだ。もっと、もっと…………肺の中の空気を『吐ききったな』と思ったら、ゆっくりと鼻から吸ってごらん」
私が、遠い昔に劣悪な家畜舎で働きながら覚えた、自己流の過換気の鎮め方である。
私が教えた呼吸を繰り返しているうちに、彼は息が整ってきたようで、「はい」とか「すみません」といった言葉を返してくれるようになってきた。
時折、犬歯をむき出すようにして口から息を吸ってしまう時があったが、そのたびに、私は彼の肩を叩き、動揺を鎮めるように声をかけた。
「よしよし……きちんと吐けているよ。巧い、巧い……」
彼は、ずっと涙を流している。
やがて、鼻呼吸のみになってきた。
私は、藤森ちゃんに冷たい水を持ってきてくれと頼んだ。息が整ってきた彼に、それを飲ませてやった。
「君には、何かアレルギーがあったかな?」
「いいえ……特に何も……」
「……何か、パニックになるような事が起きたのかい?」
「いいえ……」
(何らかの、記憶の『想起』に伴うものである気がするな……)
「料理は、彼女に代わってもらうのが良いんじゃないかい?」
「僕は、もう大丈夫です……」
「本当に大丈夫かい?」
「やります……」
彼は調理を再開し、泣きながらでも、立派にやり遂げた。
しかし、昼食の後に再び呼吸が荒くなり始め、私は彼に「和室で休んでいなさい」と指示した。彼は「大丈夫です」と言ったが、私は「夕食は藤森ちゃんに任せて、寝ていなさい」と命じた。
「今日の君は……明らかに具合が悪いじゃないか。早退してもいいくらいだと思うよ」
「しかし……」
「家まで送ろうか?」
彼は、しばらく迷ってから、力無く「お願いします」と言った。
生真面目な彼は、勤務時間内に寝転がるということを絶対に しない。
私は、彼を車で自宅近くのコンビニまで送ってやった。助手席に座った彼は、車内では ほとんど何も言わなかった。
車を停めてから、私は彼に問いかけた。
「明日は休みだったよね?」
「はい……」
「ゆっくり休んで。明後日以降も、無理をしないで、辛ければ休んでくれていいからね」
「すみません……」
彼は、真っ赤な眼をして、背中を丸め、そのままコンビニの中へと消えていった。
2日後。坂元くんから「体調が悪いので、しばらく休みます」と連絡があった。私は二つ返事で了承した。「出勤できそうな日が分かったら連絡してくれ」「傷病手当の手続きが必要なら、書類はこちらで用意する」と伝えた。
それから更に数日後、夜間に彼から電話があり「外出するとパニックになってしまう」「電車に乗るのが難しくなってきた」と報告を受けた。
「落ち着くまで休みなよ。……傷病手当は、どうする?」
「まだ、そこまでは……」
「とりあえず有休扱いにしておくよ」
「恐れ入ります……」
彼との通話を終えたら、私は夫に要点を伝えた。夫も、坂元くんの持病のことは知っている。
「坂元さん……大丈夫かな……」
「ゆっくり休んで、しっかり治してもらおう。それしかない」
「そうだな……」
坂元くんの復職の目処が立たないと判ると、藤森ちゃんは清掃業のアルバイトを2つとも辞めて、週5日 我が家に来てくれるようになった。「急遽、地元に帰らなければならなくなった」と嘘を言って、些か強引な辞め方をしたようだ。
彼女は、思いのほか気骨がある。
溜まった有休を使い果たしても、坂元くんは まだ復職しなかった。
私は、毎朝の散歩の延長で、彼の家を訪ねてみることにした。本人に連絡をしてから、傷病手当金の受給に関する書類を持参した。
玄関で出迎えてくれた彼は、また随分と痩せてしまっていた。冬用の厚いジャージを穿いて、すっかり くたびれたスウェットを着ている。
「おはよう。調子はどうだい?」
「あまり……良くはありません……」
彼は正直者だ。
「食欲が無いのかい?」
「そうですね……」
玄関には、空のペットボトルが詰められたゴミ袋と、缶詰の空き缶が大量に入ったゴミ袋がある。どちらも、きちんと洗ってから捨ててあるので、まったく臭わない。資源ゴミというより、単なる空き容器である。
1DKらしい部屋の、ダイニング部分に通された。台所も、食卓周りも、具合が悪いにしては綺麗に掃除・整頓されている。(壁には、私が過去に贈ったファンアートが飾られていた。きちんと額に入っている。)
「綺麗にしてるじゃないか」
「部屋の掃除くらいは、きちんとしておかないと……なんだか落ち着かなくて……」
「根っからの働き者だね」
「とんでもないです……」
小さな四角い食卓を挟んで座り、彼が淹れてくれた茶を飲みながら、私は近況を尋ねた。
「電車に乗るのが難しいと言っていたけれども……通院は出来ているかい?」
「受診の時だけ……どうにか我慢して乗ります……」
「薬は変わったかい?」
「……変わりました」
「それで、少しは良くなったかい?」
「ほとんど変わらない気がします」
「……合っていないのかもしれないね」
彼は、ため息で応えた。
「先生…………申し上げにくいのですが、僕、どうやら幻視を見るようになってしまったみたいで……」
「なんと……!」
「あと、幻聴も出始めて……」
「……大丈夫かい?」
彼は、力無く首を横に振った。
「まだまだ、慣れていなくて……視えると、かなり動揺してしまいます……」
「何か、恐ろしいものが見えるのかい?」
「そうですね……。突然、足元の地面が崩れ去っていくような感じがしたり……家の中に、自分の死体が在るように視えたり……誰だかよく判らない、侵入者が視える日もあります……」
「落ち着かないねぇ、それは……」
「幻視の人は、実在する人よりも色が薄くて……『これは幻視だ』と判るので……自覚がある分、症状としては軽いのだろうな、とは思います」
(知識がある分、冷静だな……)
「……何か、強いショックを受けるようなことが起きたのかい?」
「…………起きたといえば、起きたのですが、20年近く前のことです」
(やはり『過去』か……)
「随分前の出来事なのですが……ここ最近、当時のことが、頭から離れなくなってしまって…………特に、出歩くと、当時の光景が、頭から離れなくて……頭の中で、大勢の人が、自分を嗤っている声が聞こえて……店で何かを選ぶたびに、誰かに批判されているような気がしたり……誰かに、自分の体型を馬鹿にされているように感じてしまって、着替えたり、風呂に入ったりするのが、辛かったりします……」
「君は、馬鹿にされるような体型ではないよ」
食欲が無くても栄養面には気を遣うためか、彼は病的に痩せているわけではないし、肌艶も良い。今は背中を丸めているが、仕事中の姿勢は決して悪くないし、不潔に感じてしまうほど毛深くもない。
「僕は……」
彼は、大学時代に受けた『誹謗中傷』のことを、初めて打ち明けてくれた。学生寮の自室に招き入れた同期の中に、彼の居室内や作品を盗撮した上に、無断で写真をインターネット上の匿名掲示板に掲載した輩が居て、それをきっかけに、彼が中学時代に公開していたホームページが特定され、そこに掲載していた漫画を根拠に、彼が「同性愛者に違いない」という噂が広まり、学内外で、ひどい嫌がらせや差別的な扱いを受けたのだという。大学構内での盗撮もあり、大学3〜4年の期間は、生きた心地がしなかったという。極めて悪質な犯罪だとは思われるが、それでも、大学の所在地を管轄するはずの警察は一切動かなかったのだといい、彼は それ以来「警察」そのものを信用しなくなったという。
私の夫の勤務先で起きたことが、彼に、それを想起させてしまったのだろう……。
「いつの時代にも、カスの集団というのは居るのだね……」
本当に、ろくでもない国だ。
「僕、大学の時に、そういうことがあってから……未だに、あのくらいの年代の人達が、怖くて……」
話しながら、彼は涙を流し始めた。恐怖心よりも、それを恥じる気持ちの表れであるような気がした。
(すごく解る。……私も、暇を持て余した大学生というものが、心底 大嫌いだ。……私は、日本の『大学』ほど、愚かしい組織は無いと思っている……)
「馬鹿な大学生なんて、講義の合間の空き時間に、違法行為で『暇つぶし』をするからねぇ……まぁ、彼らには『違法だ』という自覚も無いのだろうけれども。私が学生だった頃も、大学院で勤務していた時も、そういう、ろくでもない輩は腐るほど居たよ」
私は、二度と「大学」という組織に関わりたくない。
「僕は……先生ほど、毅くはありません……」
「毅いもんか!私だって、未だにフラッシュバックで泣くんだぞ!?」
彼は、至極暗い顔で、ずっと涙を流している。
「カス共が ばら撒いた汚い言葉を、真に受ける奴のほうが、どうかしてるよ。……君に非が無いのは、明らかじゃないか」
「先生……」
「君は、藤森ちゃんと一緒に働くのも『怖い』と感じるかい?」
「いいえ……」
「それなら良かった」
彼女は21歳だ。年代としては、ドンピシャだ。その彼女と居ることが怖くないのなら、ひとまず安心だ。
「電車の中で、学生連中に出くわすのが辛いなら……自転車を買うというのは、どうだろう?」
「それも良いんですが、僕、今……『車を買おうかな?』と、少し考えてて……」
「お、良いねぇ!」
「でも、維持費が嵩むでしょうし、先生の家の近くに、駐車場が見つからなくて……決めかねています」
「なるほどねぇ」
私は、腕を組んだ。
夫が愛用していた自転車が まだ残っていれば譲ったのだが、残念ながら もう売ってしまった。(彼は内耳を悪くして以来、自転車には乗らなくなった。)
「交通手段の問題さえクリアできれば、仕事は出来そうなのかい?」
「僕としても……ずっと独りで居るよりは、先生や、他の方々と一緒に居たほうが、気が紛れるので……早く出勤したいです」
「買い出しは、辛くないかい?」
「まだ、何とも言えません……」
「……藤森ちゃんと役割分担をしてもいいし、これを機に、通販を積極的に利用するというのも、良いかもしれないね」
「ですが、通販だと送料が……」
「うーむ。藤森ちゃんが免許を取れば、何も問題は無くなるのだけれどもねぇ……」
彼女は、今は貯金とアパート探しに必死だ。教習所に通えるようになるのは、もう少し先だろう。
涙が止まった彼は、深々と頭を下げた。
「お手数おかけして、すみません……」
「謝るようなことではないさ。私が、君達にさせてしまったことに比べれば……何でもないだろうよ」
私は、持参した書類を彼に手渡した。
「もっとゆっくり休みたいなら、それでもいいし……短時間でも復職したいなら、私達は歓迎するよ。好きにしてくれたらいい」
「……恐れ入ります」
結局、彼は「薬に頼らずに治したいから、湯治に行きたい」と言い始め、知人が働いているのだという、遠方の温泉に旅立っていった。私も、彼に薦められて行ったことがある温泉なのだが、まさに「山奥の秘湯」といったところで、都会の喧騒を忘れ、限りなく貸切に近い浴場の中で、のんびり出来るのだ。
実に良い選択だと思った。
次のエピソード
【17.守るべき家族】
https://note.com/mokkei4486/n/n36b867bb8d1f