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小説 「吉岡奇譚」 17

17.守るべき家族

 今日は、毎月恒例の玄ちゃんとの食事会の日である。馴染みの海鮮居酒屋の個室に陣取り、いつもの海鮮鍋を突つく。他にも、焼き魚や寿司を大量に頼んだ。
「キノコ屋さんは、どう?楽しいかい?」
「楽しいよ。……椎茸がね、すごく可愛い」
「……可愛い、の?」
「可愛い」
彼は力を込めて頷く。
「毎日、見るたびに大きくなるんだ。カビが生えないように、大事に大事に世話をするの。…………可愛い」
最後の「可愛い」と言うところで、顔を赤くして にやにや笑う。(彼は、歯並びが すごく良い。)
 私は、キノコを「可愛い」と思ったことなど無いが、自分で一から育てれば、きっと愛着が湧くのだろう。
「ところで、藤森さんは元気?」
「あぁ、元気だよ。……意外に、タフな子だね。自分の意志が、はっきりしてるというか……おじさん相手に物怖じしないで、自分の力で、進路を切り拓くことが出来るんだ。……凄く羨ましい」
「おじさん?」
「バイト先の偉い人に嘘を吐いて、強引に辞めてきたんだ。私の家に毎日来られるように……」
「へぇ……。坂元さん、だっけ?あの人は、どうしたの?」
「彼は今、病気で休んでいるんだ……湯治に行ってるよ」
「トウジ……?」
「温泉に浸かって、身体を治すんだよ」
「……早く、良くなるといいね」
「そうだね」


 食事会が終わり、私達はまた地下街を歩いて駅に向かっていた。居酒屋やレストランが並び、仕事帰りらしい人々で賑わっている。
「……先生。あれ、悠さんじゃないかな?」
「え?」
彼が指さした人物は、夫ではなかった。背格好がよく似ているだけの別人だ。夫よりも若く、20代後半くらいだろう。友人らしい3人組の中の1人で、居酒屋の前に並んだ順番待ち用の椅子に座り、スマートフォンで何かを見ながら騒いでいる。その3人組は、既に酔っているように見受けられる。
「いや、違うなぁ……別人だよ」
そのまま過ぎ去ろうとしたが、その男が仲間達と共に繰り返している名が耳に入り、私は胸騒ぎがした。彼らがスマートフォンを見ながら何度も口にしている「サナダ・ユウスケ」という名は……私の夫と同じ名前なのである。彼らは、まるでお笑い芸人の名でも口にするように、ゲラゲラ笑いながら連呼しつつ「ヤバくね?」とか「わけわかんねぇ!」などと言っている。
 その姿が、過去に私を執拗に監視して嗤っていた連中と重なる。背筋が凍るようで、私は思わず頭を振る。また、叫んでしまいそうになる。
 ありふれた名前ではあるから、同姓同名の別人かもしれない。(読みが同じというだけで、漢字は違うかもしれない。)
「何を見て、笑っているのかな?」
 看過できなかったらしい玄ちゃんが、彼らに声をかけた。
「おっさん、誰?」
「君達が さっきから繰り返してる名前、僕の友達と同じ名前なんだけど……それ、見てもいい?」
「はぁ?……何?おっさん、犯罪者の息子と友達なの?」
若者は鼻で笑う。
 確かに、夫の父親には犯罪歴がある。(夫は親族と絶縁しているため、私は彼らと面識は一切無い。)
「いいから見せろ」
私は、居た堪れなくなって、真ん中に座っている男からスマートフォンを ひったくった。
「何すんだよ!ババア!!」
 ババアと呼ばれるほどの歳ではないので、無視する。
 奪い取ったスマートフォンに表示されていたのは、例の匿名掲示板だった。削除要請は通ったと聴いていたが、別のものが作られてしまったようだ。
「返せよ!」
持ち主が怒って立ち上がるが、私は構わず背中を向ける。玄ちゃんが「見せてあげて」「すぐに返すから」と、宥めてくれている。
 そこに記載されていたのは、私の夫が「犯罪者の息子」であることや、それを理由に行く先々で虐められていたこと、高校卒業後しばらくは転職を繰り返していたこと、父親の罪状や刑期、夫が「過去の勤務先ではセクハラの常習犯だった」という噂、更には「違法薬物を乱用していた母親から産まれたために、先天的に脳が壊れている」「生まれながらの薬物中毒」などという、ひどいデタラメが書かれていた。(父親の罪状だけは正しかった。夫の父親は、違法薬物の『運び屋』であったが故に、過去2回服役している。)
「何だ、これは……!!」
 私は怒りのあまり、奪い取ったスマートフォンを地面に叩きつけてやろうかと思ったが、今の この大事な時期に、つまらない喧嘩で勾留されるわけにはいかない。
 どうにか怒りを鎮め、スマートフォンを持ち主に突き返した。
「すまなかった、ありがとう」と、言った自分の声の太さに、我ながら驚いた。
(まるで、【彼】ではないか……!)

 私が幻聴に苛まれている時、過去に浴びせられた侮蔑の言葉や嘲笑に混じって、それに反論する「成人男性の声」が聴こえることがある。それは、毎回 同じ声である。
 【彼】の声は、被害を受けた当時の私が押し殺してしまった「本音」を代弁するものであったり、反撃をせずに逃げ帰ってきた私を責めるものであったり、時によって内容は違うが、力強く、野太い。【彼】は、いつも怒りや憎しみを露わにして、雷を落とすかのように、攻撃的な言葉を叫んでいる。あまりの「声量」に、頭の奥や、耳の奥が、痺れるように感じることもある。時には、加害者達の声と、【彼】の声が、攻撃的な言葉の応酬を繰り返す。
 私の認識および主治医の見解としては、【彼】は、私の「交代人格」である。……要するに、私は いわゆる『多重人格』なのだ。(正式な病名は【解離性同一性障害】という。)一つの体の中に複数の人格が共存し、それに起因する記憶障害・意識障害が見られる精神疾患である。
 【彼】は、弟が生まれる前から、私の頭の中だけに存在している。そして、【彼】は 私が その存在に気付いた時から ずっと「成人」であり、何年経っても歳を取らないように思われる。
 同じ肉体を共有する【彼】とは、概ね良好な関係にあると言えるが、ひとたび【彼】が肉体の主導権を握って暴れ出すと、私は、己の身体を、ただ「外から見下ろす」しか出来なくなる。激昂した【彼】の暴走を止めることは、非常に難しい。かつての勤務先で、死にかねないほど身体を虐めながらも がむしゃらに働き続けたのは、半分は【彼】の意志であり、また、絵本作家となった後に、夫や岩くんを幾度となく殴ったのも【彼】である。
 殴られ続けてきた彼らは、私の中に居る【彼】の存在を知っている。(玄ちゃんや坂元くんには、交代人格の存在は話していない。しかし、少なくとも坂元くんは勘づいているだろう。)
 確固たる自我と意志を持った【彼】にも、ちゃんと名前が在る。また、私には【彼】の他にも、交代人格が存在する。しかし、岩くんは私達を「先生」としか呼ばないし、夫は「諒ちゃん」としか呼ばない。私が いかなる状態に陥ろうとも(要するに、どの人格が表出していようとも)、彼らは一貫して同じ呼称を用い、私を「一人の人間」「一人の作家」として扱う。私の中に居る【彼】や 他の交代人格の存在は認めているが、それらは あくまでも「私の一部」として捉えているようだ。
 類稀なる理解度と分別が、彼らにはある。

 3人組の順番が回ってきたようで、彼らは私達に暴言を浴びせながら、店内に消えていった。

 私は、憤りのあまり目眩がしていた。
「悠さんの悪口だったの?」
玄ちゃんの問いに、私は答えなかった。正義感 溢れる彼に話したら、きっと話が大きくなる。
「同じ名前の、別の人じゃないかな……?」
やり場の無い怒りに小さく震えながら、私は、今度こそ駅に向かって歩き出した。
 玄ちゃんは、黙ってついて来てくれた。


 解散後、私は自宅に向かって歩きつつ、不本意ながら自分のスマートフォンを使って、夫の名前をインターネットで検索した。(歩きスマホは良くないが、気になって仕方がなかった。)真っ先に出てきたのは例の掲示板で、つい先ほど見た画面と同じものが、自分のスマートフォンからでも閲覧できた。玄ちゃんが これを見つけてしまうのは時間の問題である気がした。
 本人が このことを把握しているかどうかは分からないが、少なくとも、私からは伝えないと決めた。
(今日、帰ったら社長に連絡しよう……)
夫個人だけではなく、彼の勤務先に対する誹謗中傷だからである。その掲示板においては、あの町工場が「ろくでもない精神異常者を何人も雇っているヤバイ会社」という位置づけで、差別的な暴言が書き連ねられている。
 内容を端的に言えば、あの会社に存在する「障害者雇用枠」に対する批判と、そこに在籍している障害者達への侮蔑の言葉である。
 極めて悪質な人権侵害行為であり、明らかに【違憲】だ。社長が訴訟に踏み切るなら、私は協力を惜しまない。


 私が帰宅しても、夫はまだ帰っていなかった。私は、忌まわしい掲示板の件を、メールで社長に伝えた。
 文面について長く悩んだメールを やっと送信し終えた頃に、夫が帰ってきた。彼は、今日もフラフラである。
「おかえり」
「ただいまー……」
彼は通勤用リュックを床に放り投げ、玄関に寝転がる。真っ赤に充血した眼が、左右に揺れている。今日も、夥しい数の精密部品を造ってきたのだろう。
「お疲れ。……明日は休みだっけ?」
「仕事……」
「シフトが変わったのかい?」
「明後日の出荷分が、今日で終わらなくてさ……」
「誰かに投げればいいじゃないか」
私は、リュックを回収した後、彼の側に腰を降ろした。
 彼は、仰向けになったまま、固く目を閉じて話す。
「そうは いかねぇんだよ。俺の名前で出してるんだから……」
「常務に代わってもらえよ」
あの町工場の製品で、あの常務に造れない品目など一つも無い。勤続40年を超える彼は、私個人の感覚で言えば『人間国宝級の天才』である。工場長引退後の「生き字引き」は、彼である。
「出来るかよ、そんなこと……」
畏れ多いのだろう。
「私が、バイトで手伝ってやろうか?」
「俺が哲朗さんに怒られるわ……」
彼は、そのまま眠ってしまいそうである。
 毎日これほど頑張って働いている人間を、家庭環境や過去の出来事を理由に侮辱するなど、私は赦さない。障害が理由なら、尚のこと赦せない。
(町工場で働く人間を侮辱するのなら、家電も自動車もスマートフォンも使わずに、生活してみせろ……!!)
 明日も仕事だと言うので、私はすぐに夫の作業着を洗濯する。我が家の浴室には乾燥機能がある。夜のうちに洗濯した物を浴室内に干せば、翌日の朝には すっかり乾いている。連日 同じものを着ることが可能だ。(作業着の洗い替えも、もちろん複数枚ある。)

 液体洗剤を量っていると、頭の中で、【彼】が私に語りかける声がした。(要するに、幻聴である。)
(“おい。どうするんだよ、諒……!”)
 私は【彼】の存在を、今更「恐ろしい」とか「不気味だ」とは思わない。もはや兄弟のようなものである。独りで居る時なら、いつも平然と声を出して応える。
「何の話だ?」
(“掲示板のことに、決まってるだろ!”)
「どうもしない。……社長が業者に頼んであるんだ。いずれ犯人が判る。今の法律なら、きちんと捕まって罰せられる」
洗濯機の蓋を閉め、洗剤と柔軟剤を棚に しまう。
(“そう、うまくいくか?……犯人が捕まろうとも、一度 広まった風評は消えないんだぞ?悠介は、おまえや稔と同じように、何年もずっと、ガキ共に後ろ指をさされながら、街を歩くことになるんだぞ?”)
「そんな事で、後ろ指をさす連中のほうが、どうかしてる!!悠介や坂元くんに、過失など無い!!」
私は、思わず声を荒げる。
 言ってやりたい事は山ほどある。しかし、到底 纏まらない。膨大な量の日本語が、頭の中を駆け巡る。それが、そのまま【彼】に届けばいいのだが……。
「諒ちゃん、どうした……?」
夫の声がして、私は振り返る。
 風呂に入るためだろう。夫が脱衣所に入ってきた。まだ、少し目が泳いでいる。
「また、独りで喋ってるのか……?」
「すまない……うるさかったか?」
「いや、大丈夫だよ。……ごめんな」
「なんで謝るんだ?」
「俺の出勤日がコロコロ変わるのとか、毎日のようにキレてるのとか…………諒ちゃんの、ストレスになってるだろうから……」
「そんなことはないよ」
「ごめんな、頼りなくて……」
「何を、寝ぼけたこと言ってるんだ。……現場での おまえは、最高に頼もしいよ」
「…………ありがとう」
ひどく疲れた顔をしているが、それでも、私は彼の笑顔が見られたら、とても安心する。私も、笑顔で応える。
 私は、大型犬でも撫でるように、夫の頭や背中を撫でてから、台所のある2階に向かった。彼が風呂から上がってきたら、2度目の夕食を摂るためである。


 今日は藤森ちゃんが休みだったので、夫の夕食は冷凍やインスタントの食品で済ませる。
 電子レンジや電気ケトルを操作していると、再び【彼】の声がした。
(“毎度毎度、見せつけてくれるじゃねえか……!”)
「何をだ?」
(“そんなに、あいつが好きか?”)
「好きだから、結婚したんだよ」
(“俺は、てっきり……おまえは、稔が好きなんだと思ってたぞ?”)
「はぁ?そりゃあ……もちろん、嫌いではないけれども。一緒に暮らそうとまでは、思わないよ」
(“何故だ?”)
「彼が、望まないだろうから」
(“そうなのか?”)
「……うるさいなぁ。おまえには、関係ないだろ!?」
(“大いに関係があるだろ!!同じ家で暮らすのが誰なのかは、俺にとっても重要だ!”)
「……おまえは、まだ悠介が嫌いか?」
(“そんなことはない”)
(誰の所為で、悠介が腕を失くしたか……『忘れた』とは言わせないからな!)
私が、そう強く念じると、【彼】は何も言わなくなった。黙ったのではなく、どこかに隠れたようだ。
 私の交代人格たる【彼】が、夫となる前の悠介を この家から追い出したがために、彼は……。
(私以外の誰が、彼の人生に責任を持つんだ……!)

 浴室の戸が開く音がする。私は、彼の食事を皿に盛り、食卓に並べ始める。
 やがて、見慣れたスウェットを着た夫が上がってきて、いつもの場所に座ってテレビをつけ、食事を始める。
 私もテレビが見える位置に座り、念のため自分のスマートフォンを見たが、時間帯が遅いためか、社長からの返信は来ていない。
「諒ちゃーん。明日、また義手うで持って帰ってくるからさぁ……頼むなぁ」
「任せろ」
彼は、箸を手にテレビ画面を観ながら、いかにも眠そうに言った。
「あ、そうだ……『あの掲示板は消えましたよ』って、坂元さんに教えてあげよ……」
新しいものには、まだ気付いていないらしい。……どうか、知らないまま終わってほしい。

 彼の身に何が起きたとしても、私が全力で守ってみせる。


次のエピソード
【18.進路】
https://note.com/mokkei4486/n/n282423fb83c1

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