小説 「僕と彼らの裏話」 36
36.来たるべき日のために
狭苦しい部屋でダンボール箱に囲まれて寝起きする生活が、やっと終わった。
僕は、一足先に【新居】へ住所を移し、そこで待望の新車を迎え入れた。随分と「かわいい顔」をした、水色の四角い軽自動車だ。軽とはいえ四駆だし、車内は普通車並みに広い。アウトドアでの利用を想定しているため、後部のトランクは防水仕様で、そこに自転車や車椅子を積んで土が着いたとしても、簡単に拭き取れる。レンタカーとしてなら何度か乗ったのだけれど、すごく便利で、とても気に入っている。自分用の新車が来るのを、ずっと心待ちにしていた。
とはいえ、この車で先生の家に通うのは……もう少し、先になりそうだ。
長らく安アパートの2階で暮らしてきた僕にとって、マンションの7階というのは、まったくの【新世界】だった。更には、建物全体が完全バリアフリー仕様なのだ。まるで高級ホテルか、大病院の特別病棟すら想起させる、広々とした造りと高級感だ。とはいえ、病院ほどの「息苦しい」感じはしない。もっと親近感が持てそうな例えをするなら……「大きな美術館の一角」だろうか。いずれにせよ、僕が今までに見てきた「住宅」とは、かなり違う。
引越してきた後、同じマンションの中で何頭か「介助犬」らしい犬を見かけたし、このマンション1棟に4台もあるエレベーターは、成人用のストレッチャーが難なく乗せられる大きさで、中で一人になると淋しいくらいだ。
一人には広すぎる家の中、しばらくは前の家から持ってきた布団で寝起きする。
彼女が札幌で使っている家財道具が、そのうち やってくるので、新しいものは冷蔵庫くらいしか買っていない。
車椅子ユーザーの彼女は物理的な理由で「ベッド派」だけれど、僕は健康上の理由で「布団派」だ。一つの寝室内にベッドを並べて彼女の習慣に合わせることも少し考えたけれど、睡眠障害のある僕にとって、いつでも横になれる「ベッド」というものは、いわば【危険因子】だ。日中にまで寝床で横たわったり、疲れた頭で考え込んだりする習慣が 再びついてしまったら、体内時計が狂って夜間に眠れなくなってしまう。布団なら、起きるたびに「片付ける」ことが出来るので、リスクを軽減できる。
そういう訳で、僕らは高さの違う別々の寝具で寝る可能性が高い。(僕が、昼間に彼女のベッドで寝ないようにしなければならない。)
彼女を空港まで迎えに行く日が迫っている。僕は町工場の仕事を休んで、家の掃除ばかりしている。
この日は、彼女の こだわりの浴室をピカピカに磨き上げた。非常に気持ちが良い。
作業を終え、濡れた足を拭いてからリビングに戻る。近いうちに手放すつもりの小さな古い食卓に置いていたスマートフォンを手に取って見ると、修平から「隣人の人使いが荒い」という主旨のLINEが来ていた。
単なる不平不満の話で、返信の必要性は感じなかった。2人が元気で今も交流があるのなら、それで良い。
スマートフォンを食卓横の座布団の上に放り出し、僕はベランダに出て洗濯物の状態を確かめる。夕方までに全てが粗方乾くように、適宜「並べ替え」をしてやる。
僕は、修平に結婚の話をしていない。相手が誰なのかは もちろん、すること自体を隠している。(隣人から聴いているかもしれないけれど、少なくとも彼から僕に そんな話は今まで無かった。)
彼が「同窓会をしよう」と言い出さなければ この結婚は無かっただろうから、その点については大いに感謝している。
しかし……彼女のほうは、何らかの理由で修平を完全に嫌っている。彼とは一切の連絡を絶ち、家に訪ねてきても居留守を決め込み、僕にまで「結婚のことは話すな」「私の引越し先を教えるな」と言うほどの徹底ぶりである。(理由は、訊いても教えてくれない。)
室内に戻って、ニュースでも読もうかと再びスマートフォンを手に取ると、修平から怒りの感情を表現するスタンプだけが複数個 届いていた。
(あいつ、今日は休みか……?)
僕は もはや曜日の感覚が無いのだけれど、確認したら日曜日だった。
既読を付けたことによって「スマホが手の中にある」と知られてしまったためか、今度は着信だ。とりあえず出てやる。
「はいよー」
「おぅ。おまえ今日、休みか?」
「休みだけども」
決して『暇』ではないのだ、と こちらが言う前に、高校時代から ほとんど変わらない口調で彼が捲し立てる。
「あの『部長さん』てさぁ……すんげぇパワハラ上司だったんでねえか?」
「ちげーわ。逆だよ。俺の、唯一の味方だった人だ」
僕も、彼が相手だと昔の話し方に戻る。
「そうか?……とにかくよぉ。俺、今、あの人に、ほとんど毎日こき使われてんだ!」
「魚 捌けって言われる?」
「言われる!……んで、したらしたで『下手くそだ』『けしからん』て文句言う!」
「……おまえは本当に下手じゃないか」
「知るか!何のためにヘルパー呼んでんだ、あの おっさん!」
「ヘルパーさんは、週2回しか来ないだろ」
「俺はもう『ボランティア同好会』じゃねえんだ!死ぬほど忙しい、サラリーマンなんだよ!」
連日テレビゲームに興じる、時間と体力があるじゃないか……。
「何の義理があって、俺が『隣の おっさん』のために少年漫画ば読み上げてやんなきゃなんねんだ!?」
「……相変わらず、唐揚げ たくさん頂いてるだろ?」
「んだどもさ」
「なら良いっしょや!【等価交換】だべや!」
しかし、彼は その後も延々と くだを巻く。
「うるっせえなぁ。そんな愚痴 言うために、わざわざ電話してきたんか」
「元はと言えば、おまえの知り合いだべや!?」
「だから何だよ。頼まれ事が嫌なら、自分で断れや」
「薄情者!」
僕は一方的に電話を切り、更にはスマートフォンを機内モードにした。
彼女を迎え入れるまでに、しなければならないことがある。修平が25年間も預かってくれていた、あの漫画を……シュレッダーにかけるのだ。僕はもう、そのストーリーを小説としてリメイクしたから未練は無い。
彼女の「仕事部屋」となる予定の部屋で、シュレッダーをコンセントに繋いだら、リングノートのページをバリバリちぎっていく。ゴミ処理業者が淡々と仕事をするかのように、無心で、何の躊躇いもなく。
全てのページの細断が完了し、ゴミを詰めた袋の口を縛って玄関に運んだ後、再度リビングでスマートフォンを手に取って機内モードを解除した時……またもや修平からのLINEが来ていた。
【宮澤は、元気か?】
何と返そうか……。
決めかねていると、また何か送られてきた。
【おまえ達2人が「結婚する」ってのは、本当の話なのか?】
やはり、部長から聴いていたのか……。
僕は、しばらく考えてから、少なくとも嘘ではない答えを返した。
【本当の事だけど、彼女には固く口止めされてるんだ。親に居場所を知られるわけには いかないから】
だから、僕は修平に今の住所を教えるつもりはない。彼女と修平の間でトラブルがあったかどうかは、関係無い。
彼からは【分かった。これからも、知らないふりをする】とだけ返信があり、そこで会話は終わった。