小説 「吉岡奇譚」 18
18.進路
今日は、岩くんが5歳の末っ子を連れてくる予定の日である。息子を私達に預けた状態で、一人で集中してライトノベルの仕事を進めたいと聴いている。
インターホンが鳴り、私は普段どおり出迎える。
「おはよう」
「おはようございます、先生。本日は、よろしくお願いします……」
岩くんのすぐ後ろに居る息子の悟くんは、この家に来たら、毎回 必ず玄関に飾ってある赤べこを しげしげと観察する。
「とびらがしまります。ごちゅういください。……とびらがしまります。ごちゅういください。とびらが……」
彼は、来る途中に電車内で聴いたアナウンスを憶えてきたようで、赤べこを観察しながら、同じ文言を ずっと繰り返している。
「悟。『先生、こんにちは』だろ?」
「とびらがしまります。ごちゅういください」
岩くんは、小さな ため息をつく。
「ははは!よほどお気に入りらしいね」
「すみません……」
悟くんは、自閉症である。今はまだ「使える言葉」が少なく、他者との会話は難しい。
読書や好きな遊びに熱中していられる間は すごく大人しいが、彼も、私の夫に負けないくらいの癇癪持ちである。着る服や、家の中での「居場所」や「通り道」に、強いこだわりがある。また、体を触られるのが大嫌いなので、保護者と手を繋いで来ることは まず無い。大抵は、手を繋ぐ代わりに、今のように父親が背負ったリュックから紐で ぶらさげている恐竜の ぬいぐるみを掴んでいる。(そんな彼を風呂に入れることは難しく、保護者達は毎回 苦戦させられるのだという。)
体は小さいが、ひとたび癇癪を起こして暴れ出したら、強敵だ。誰かに物を投げつけたり、噛みついたりすることもあれば、自傷行為に及んでしまうこともある。(私も何度か彼に手を噛まれているが、ヒトの歯と力なら、大した傷にはならないので、特に気にならない。若い頃に、嫌というほど馬や豚に噛まれてきたことを思えば……もはや「噛まれたうちに入らない」とさえ思う。)
岩くんは、妻や他の子ども達が気分転換できるようにと、悟くんだけを連れてこの家を訪ねてくることが度々ある。
自分の家では暴れん坊の彼も、この家では比較的 大人しい。どうやら内弁慶のようだ。
親子をリビングに通すと、藤森ちゃんがすぐに2人分のお茶を出してくれる。
2階の事務机の下が、この家での悟くんの定位置である。彼は、他の人と並んで食卓につくのが苦手なのだ。
父親の岩くんが、まずは机の下に居る息子にお茶を飲ませてから、大人しく電車に乗って来られた『ご褒美』のお菓子を渡す。
私は、それを黙々と食べている彼に、次回作の絵の下書きを見せた。
「悟くん。これは何に見える?」
「……トロオドン」
「よし!」
私は年甲斐もなくガッツポーズをする。
「彼が言うのなら間違いない!私は、正確に描けている!」
はしゃぐ私を前に、岩くんは何も言わずにクスクス笑っている。(私は、彼の笑い方を見れば、身体に痛みがあるかどうか、すぐに判る。今日は、調子が良さそうだ。)
この悟くんは、小さな恐竜博士である。図鑑やテレビ番組を見て、種類を正確に言い当てることが出来る。
「自信を持って、描き進められるよ。ありがとう」
「…………せんせい、こんにちは!」
「はい、こんにちは」
今、挨拶を思い出したようだ。
岩くんは、茶の入ったカップを手に、とても小さな声で、それでも満足そうに「よくできました」と呟いた。
彼は、今日も眠そうだ。
岩くんが1階の応接室に篭っている間、私は悟くんにお気に入りの恐竜図鑑を貸した上で、自分もすぐ近くに座り、私淑する高僧の著書を読む。悟くんとは初対面となる藤森ちゃんは、何度か彼とのコミュニケーションを試みたが、彼は断固として図鑑から視線を上げない。独りで、恐竜の名前や、覚えたての言葉を繰り返しながら、淡々とページをめくっている。
「彼は基本的に、人物に あまり興味がないから……いつも、こんな感じだよ」
彼女は沈黙で応える。
「坂元くんなんて、赤ちゃんの時から知ってるはずなのに、未だに視線を合わせてもらえないし、まるで眼中に無いみたいだよ」
彼女は、いそいそと筆談具を持ってきて文章を書いた。
【私も、近くで本を読んでいても いいですか?】
「もちろん」
彼女も3階の資料室から お気に入りの書籍を持ってきて、3人での読書会が始まる。
各自がページをめくる音と、悟くんの独り言以外は何も聞こえない、穏やかな時間が流れる。(テレビは消してある。)
15時を回った頃、インターホンが鳴った。怒涛の11連勤の末に早上がりしてきた夫が、帰ってきたのだ。(明日からは連休となる。)
なかなか2階に上がってこない。1階で岩くんと話しているのだろう。
(風呂はどうするだろう……?)
夫は、帰りにコンビニに寄ってきたらしく、大きめのレジ袋を持って2階に上がってきた。
「ただいまー……お、悟ちんが来てるじゃねーか。やっほー」
「やめろ。彼に妙な言葉を教えるな」
「お堅いなぁ……。藤森ちゃん、唐揚げ食う?」
彼女は嬉々として頷き、読んでいた本を閉じて食卓に置いたら、レジ袋を受け取るために立ち上がる。受け取ったそれを台所に持っていく。夫が、後から ついて行く。
2人が唐揚げのことや夕食について意見を交わしている様子を耳に聴きながら、私は静かになってしまった悟くんに目を向ける。
彼は、夫が帰宅したことに気付き、何かを考えて、言おうとしている。眺めていた図鑑を閉じて、それを大事そうに両手を添えて床に立てたまま、視線を泳がせて、小さな唸り声を出している。
彼の兄姉2人は、私の夫を「悠くん」と呼んで、とても懐いてくれているが、彼はまだ、夫のことだと分かるような言葉を発したことがない。
「さとる、さとる……さとる……」
彼が自分の名前を繰り返し始める時は、大抵、他の人が食べている物を自分も食べたいか、名前を覚えていない人に呼びかけようとしている時である。他者が自分に「さとる」と呼びかけてくることをよく知っている彼は、それを「自分に与えられた固有名詞」というより「人を呼ぶ時に使う言葉」だと認識している節がある。
私が「せんせい」であることや、両親や祖父母、兄姉達の呼び名は、概ね理解して使い分けることが出来ているが、「さとる」の使い方は、まだよく解っていないようだ。
父親の岩くんは、息子の発達に遅れがあることについて「彼は一人で着替えられるし、きちんとトイレで排泄が出来るから、何も問題は無い」「小学校に上がれば、嫌でも言葉を覚える」として、寛大かつ楽観的に捉えている。そして、口癖のように「受傷直後の私より、ずっとお話が上手です」と言う。
真に寛大な父である。
藤森ちゃんが夕食を作り始める。岩くん達の分は「要らない」と聴いているが、私は念のため1階まで訊きに行く。悟くんのことは、夫に任せる。
私が応接室に入ると、彼がノートパソコンを前に眼鏡を外して咽び泣いていた。別段、珍しいことではない。涙もろい彼は、自身が担当する作品に深く感情移入したり、「涙活」と称して この部屋で映画鑑賞をしたり、担当する作家の健康状態や近況に一喜一憂したりして、よく独りで涙を流している。
運動によるストレス発散が難しい彼にとって、涙を流すことは、重要なストレス解消法なのである。(ただ、義両親と同居する自宅内では憚られるのだという。)
「また……何か、感動するお話を読んでいるのかい?」
「……今、春日井先生の遺稿を拝読しているのです」
私の知らない名だった。
彼が今 読んでいるのは、若くして病死した作家が遺したライトノベルなのだという。作者の死後に見つかった原稿で、遺族からの依頼により、出版に向けて最低限の校閲を行っているそうだ。
「君は、生前の この人を知っているのかい?」
「私が担当でした」
「そうかい……」
いつ亡くなったのかは知らないが、その作家を想って泣くだけの思い出があったのだろう。
「あの……ところで、吉岡先生は、どうして1階に……」
「あ!そうだよ!岩くん達、今日は晩ごはん要らないんだよね?」
「はい」
「それを確認しに来たんだ」
「そうでしたか……。悟は、大人しくしていますか?」
「夢中で私の図鑑を見ているよ」
「そうですか。良かった……」
私は、鼻をかんでいる彼の隣に座った。(この部屋には箱ティッシュが常備してある。)
「岩くん。……今、少しだけ良いかい?」
「はい。何でしょうか?」
彼はゴミ箱を足元に引き寄せ、そこにゴミを放り込む。
私は、作画を進める中で固まっていた『決意』を、初めて口に出した。
「申し上げにくいのだけれども。私は……今書いている話で、絵本は最後にしようと思っているんだ」
「えっ……!?」
「可能なら……同じ名前で、児童文学に挑戦してみたいんだ」
「……どうして、そう思われるのですか?」
涙目で訊かれると、些か心苦しい。
「私も、もう……歳なのだろうね。絵を描くだけの、集中力が続かないんだ。
文字だけの原稿なら、パソコンさえあれば何処ででも執筆が出来るから、図書館やビジネスホテルで集中して書くことが出来るし、立ったり、座ったり、体勢も比較的自由に変えられるけれども……。絵は、やはり どうしても、アトリエに篭らざるをえないし、私は、あの『心身に良くない』体勢でしか、まともな絵を描けないんだ。絵の出来栄えを想うあまり、長時間、良くない姿勢で居るから…………どんどん、気がおかしくなってしまって、相変わらず幻聴だの幻覚だのに悩まされて……健忘だってあるし……やはり、私は、絵を職業とするには適さない人間なんだ。つまらない意地を張らずに、そろそろ引退すべきだと思うんだ」
「相変わらず……解離の症状は、出ていますか?」
「アトリエに篭ると、どうしてもね……。
それに、私は……君が担当から外れた途端、まるで描けなくなっただろ?…………要は、そういうことなんだよ。私は、君とでないと、絵本は続けていられない」
「前の担当者とうまくいかなかったのは、彼女が持っていた【偏見】に、原因があったのでしょう?」
「それもあるけれども……。世の中に、君ほど、私に詳しい人間は居ないよ。親よりも、主治医よりも、私の心身について、よく解ってくれている。……医療機関というものを まるで信用できなくなった私が、今 もこうして生きていられるのは、君が居てくれるからだよ。君の代わりなど……ありえない」
「滅相もない……」
「絵を描くのに向かない人間を、ここまで支えてきた君は本当に立派だし、同じことが出来る人間が、そう何人も居るとは思えない」
彼は、黙ってパソコン上で開いていたファイルを上書き保存してから最小化し、ノートパソコンを閉じた。
そして、椅子を動かして私のほうへ向き直った。
「……吉岡先生ご自身の意志であるなら、私は、反対など しません。先生が、新しい分野への挑戦を望まれるのなら……可能な限り、応援させて頂きたいと考えています。私は、いずれ編集部を退く身ですから……然るべき後任者を、社内で探してみます」
私と うまくやれそうな児童文学の編集者を探すということだろう。
「もし、良い人が見つからなければ……他社の新人賞にでも応募してみるよ。それで駄目だったら……文学は諦めて、掃除屋さんのバイトでもするさ」
「吉岡先生なら、きっと良いものが書けます」
「……君は本当に優しいねぇ」
しばらく2人で児童文学に関する話をしていたが、やがて、彼がパソコンの電源を落としながら「そろそろ帰る」と言い始め、私達は2階に上がった。
夫が、夕食前の悟くんに腹が膨れるほど唐揚げを与えてしまったことが判明し、私は「まずいことになった」と思ったが、岩くんは夫を責めなかった。ただ、息子の側にしゃがんで、優しく声をかけるだけである。
「良かったなぁ、悟。美味しいもの貰ったな……『ありがとう』だ」
「たべる」
「もう食べたんだろ?『ありがとう』は言ったか?」
悟くんは、答える代わりに父の手を掴み、1階に降りる階段のほうへ引っ張り始める。おそらく「帰るんでしょ?」と言う代わりに している行動である。
彼は、基本的には身体的な接触を嫌うが、何か頼みたい事や伝えたい事がある時は、家族の手を掴んで伝えようとする。
「あぁ、帰るぞ。だが、もう少し待ちなさい」
岩くんは手を引かれつつも その場を動かず、夫に唐揚げの件について礼を言った。
私が「晩ごはんに影響しないかなぁ……?」と小声で言うと、岩くんは「少なめに出してやればいいのです」と、至って冷静に答えた。
無事に一日を終え、夜間に作画を進めていると、岩くんから「妻の体調が芳しくないので、明日以降も今日と同じように末っ子を預けた状態で仕事を進めたい」という旨のLINEがあり、私は快諾した。
日中には子守りをして、夜間に作画を進め、早めに寝たら、朝にはまた散歩に出かけて……という生活リズムは、決して悪くない。むしろ、非常にありがたい。
私は「時間無制限」で作画に臨むと、いとも簡単に【健忘】の症状が出る。(あるいは精神的な『退行』かもしれない。)長時間 独りでアトリエに篭っていると、まるで20代にタイムスリップしたかのような気分になり、若い頃と同じペースで描けないことに苛立ったり、30代になってから購入したこの家を「知らない場所だ」と錯覚したり、夫や藤森ちゃんの存在を一時的に忘れたり……と、散々な有り様なのである。
20代の頃の記憶に関連する幻聴ばかりが聴こえてくるのも、長時間に渡る作画によって過去の軟禁状態を想起して「自分は20代である」と錯覚するためかもしれない。
気分転換の機会や、『今』を知る手がかりを提供していただけるのは、非常にありがたい。記憶が吹っ飛ばずに済む。
就寝前、私は夫に、彼らが明日も来ることを伝えた上で「悟くんに、あまり不慣れな物を食べさせないように」と、釘を刺した。彼は、予想通り「お堅いなぁ……」とだけ言って、眉をひそめた。
そして、彼は布団の上で大きな欠伸をすると、何も言わずに床にあったリモコンで寝室の照明を消した。
彼はひどく疲れているだろうから、私も、何も言わなかった。絵筆を置く話は、後日だ。