小説 「僕と彼らの裏話」 15
15.師範
翌朝。僕は先に起き出して朝食を済ませ、哲朗さんの身に異変が起きないか気にしつつ、彼の朝食を用意し、録画した番組を観たり、明日以降の仕事に備えてレシピ本を眺めたりしていた。
居間と寝室を仕切る引き戸は、半分くらい開けてある。寝姿が丸見えの状態だと「監視」するようで失礼なので、彼が寝ている側は扉で隠してある。
彼が先生の家で寝ている姿は何十回と見てきたけれど、自分の家でとなると……不思議で堪らない。
寝室の暗がりの中、穏やかな寝息を立てて、子どものように腹を出して寝ている。
正午近くになって、やっと「おはようございます」と言いながら居間に出てきた彼は、まるで「お父さんライオン」である。狩りと子守りを雌に任せ、縄張り争いによる疲れを癒すべく長々と眠っていた、群れの長のようである。
元から癖のある、僕より長い黒髪は、見事なまでに ぼさぼさで、雄ライオンの立派な たてがみを思わせる。
「おはようございます」
僕が挨拶を返しても、彼は まだ、ぼんやりしている。大きな欠伸をして、伸びをして、また欠伸をした。
「寝過ぎたかもしれません……」
「ゆっくり休めたなら、良かったです」
彼は特に何も言わず、顔を洗って、僕が用意していた朝食を食べ始める。
時間帯としては完全に「昼」で、僕は昼食としてカップ麺を食べることにした。
彼は、食べるのに邪魔な髪を、何度も耳に かけ直す。
「あぁ……そろそろ、散髪しないと……」
彼は、自身の髪型というものに、まるで興味が無い。邪魔になってきて「刈ろう!」と思い立った日には、一気に数ミリ〜数センチの短髪にしてしまい、その後、再びライオンのような頭になるまで放置する。側頭部の髪を ばっさりと刈り込むと、過去に縫った箇所が、剃り込みの入れたかのように露わになる。
「今日、行っちゃえば良いんじゃないですか?お休みなんでしょ?」
僕らは基本的に、即日に切ってもらえる1000円カットにしか行かない。予約が必要な高い店は、はっきり言って面倒くさい。
「そうしましょうか……」
彼の眼鏡は、ずっとケースにしまわれたままだ。目元の いちばん新しい傷が、よく判る。
食器を流しに運んでくれた彼が、居間の隅に置いてあった、漫画本が詰まったプラスチックケースに気付いた。
側まで行って、中身を確認する。
「おっ……『スポ根漫画』ですか?」
「あ、はい……自分は、何もスポーツなんかしないんですが……こういう話を、読むのは好きです」
「なるほど……」
彼は「読んでもいいですか?」と問い、僕はもちろん快諾した。
ケースの蓋を開けて、裸眼のまま全28巻の相撲漫画の第1巻を開く。あっという間に読んでしまう。
「うわぁ……良いなぁ……!」
感嘆し、どんどん読み進める。彼は文学でも「速読」が出来るけれど、漫画を読むのも すごく速い。
「作画も良いし、構成も……すごく巧い!至ってシンプルなストーリーなのに、読み手を退屈させない展開……各キャラクターの設定も自然で、読んでいて『違和感』が無い……」
僕に語っているのか、一人で熱くなっているのか……。分からないけれど、なかなか見られない姿だ。
そして、漫画作品であっても、読む時の着眼点は、やはり【書き手】の それだ。
「私……いつか、また『編集』がしたいなぁ……!!」
彼は、ずっと漫画本だけを見ている。
「……総務に異動したのって『上の命令』なんですか?」
僕が質問すると、彼はページを めくるのをやめて、顔を上げた。
「いいえ……自分から願い出ました。いよいよ悟が小学校に上がりましたし、上の2人のためにも、土日に休める部署に移りたかったので……」
僕は、一度は「なるほど」と応えてから、違和感に気付いた。
「え、でも……『イベント』って、土日にあるでしょ?」
「まぁ……そちらは『毎週』ではありませんし、基本的には営業部の仕事ですから……」
「なるほど……」
家族のための異動なら、仕方ないのだろう。
しかし……僕は、彼が【編集】に懸けてきた情熱も、知っている。作家達の【生きた証】とでも言うべき原稿そのものの出来だけではなく、生命を削って創作を続ける彼らの【健康】を守るべく、自らも骨身を削り、時には上司に牙を剥いてきたのである。
「異動して……すごく、惜しまれたんじゃないですか?先生方から……」
「……そうですね。ありがたいことに……勿体ないことに」
彼の眼が、じわじわと赤くなる。
僕は、至って真面目な顔で、彼の眼を見て言った。
「僕……もし、哲朗さんが【自伝】を出版されたら、絶対 買います。家宝にします」
「えっ……!?どうしたんですか?急に」
「僕は、哲朗さんを尊敬しています」
宮ちゃんに告白した時と同じだ。自分の衝動的な発言に対し、頭の片隅では、至って冷静な自分が呆れている。「話している自分」とは別に……「見ている自分」が居る。
哲朗さんは、突拍子のない話にクスクス笑い出したけれど、すぐ冷静になって、涼やかに謙遜した。
「私は……【自伝】を書くほどの、大それた人間ではありません」
「僕からすれば、ご立派な方です!」
いかにも「台詞的」だ。我ながら、語彙の少なさが恥ずかしい。
哲朗さんは、動じない。
「私は……地元で事故に遭った時、ローカル新聞に載って……それだけで、もう……懲りました。自分の名前で、何かを出版するなんて……恐ろしくて、出来ません」
僕は、応えることが出来なかった。
「意図しないうちに、有名になってしまうというのは……恐ろしいものです」
彼は、淡々と漫画本をケースにしまっていく。全てを読み終えたわけではないけれど、読むのをやめたのだ。
「私は……中1の5月に頭を打ってから、一年以上は『意識不明』でしたし、目を覚ました後も……元の学校に戻ることは、出来ませんでした。今の言い方でいう『特別支援学校』に転入して……そこの、高等部に4年行きました」
(特支でも『留年』があるのか……!!)
むしろ、彼が「特支あがり」だとは知らなかった。
「転入先の学校では、寮生活で……夏休み等で実家に帰るたび、ご近所さんや、かつての同級生達から、馬鹿にされたり、あるいは逆に励まされたり……いろいろありました。ほとんど忘れましたが……」
彼は、漫画本のケースに蓋をすると、再び自分の髪や ひげを気にし始めた。
「私の知り得ないところで【噂】が広まって……私の怪我のことと、父が起こした裁判のことは……地元では、すっかり『有名』なのです。田舎の、小さな町ですから……」
僕は、すっかり震え上がっていた。
自分が『有名』だった頃の記憶が蘇り、息が苦しくなってきた。
「ご、ごめんなさい……妙なこと、言ってしまって……」
「いえいえ。お気になさらず。……自伝のことなんて、本当に よく言われますから」
(なんと、強い人だろう……)
その後、彼が「シャワーを貸してほしい」と言うので、もちろん僕は快諾した。
彼がシャワーを浴びている間、僕は手持ち無沙汰に部屋の掃除をしながら、過去の自分を恥じていた。
僕が両親の庇護のもと、身の程知らずな夢を抱き、馬鹿げたギャグ漫画ばかり描いていた頃、彼は……ずっと、闘っていたのだ。
(強いに決まっている……!)
だからこそ、彼は今「偉大な父」なのだ。
座布団の上で、スマートフォンが鳴る。宮ちゃんからの、モデルルームの見学に関するLINEだ。今、いよいよ日取りが決まりそうなのだ。
「そうだよ!僕は、あれを描いていたからこそ、彼女と繋がっているんだ!!」
純然たる独り言だ。おそらく僕は、大いに吉岡先生の影響を受けている。休日の真っ昼間だと、結構な頻度で、自宅で独り言を叫ぶようになってきた気がする。
壁に掛けたカレンダーを前に、僕は今後の予定について、スマートフォンを片手に独りで喋っていた。ただ、自分の頭を整理するために……。
すると、いつの間にか哲朗さんが風呂から上がってきていて、半裸で真横に居た。
「うわっ!」
僕の不躾な反応にも構わず、彼は無言で僕のスマートフォンを指さした後、手話単語の「電話」の形を作る。
「いや、通話はしてないです……LINE見て、騒いでるだけで……」
「そうでしたか」
彼は至って冷静に、着るべきTシャツを掴んだまま、僕が洗って乾かしておいたマグカップをカゴから出し、そこに水道水を汲んだ。
薬を飲もうとしているのかと思って、黙って見ていたら、彼はそのまま水だけをゴクゴク飲み始めた。
「冷蔵庫に、お茶ありますよ!」
「あ……すみません。つい、癖で……」
「いえ。僕こそ、すみません……お見苦しいところを、お見せしてしまって……」
僕は、頭を掻きつつ、謝る。
「例の婚約者の方と、何かご相談ですか?」
「そうです。……いよいよ、モデルルームを見に行こう、ということで……」
「おぉ!」
「本人に実物を見てもらわないと、決められませんから……」
「楽しんできてください」
「……はい」
彼が幸せそうに笑っていると、僕も嬉しい。
僕も、だんだん彼の表情と「痛み」の関連性が解ってきた気がする。今は、すごく調子が良さそうに見える。
彼は、カップを置いてTシャツを着たら、洗面所まで髪を乾かしに行った。
やはり今日は散髪に行って、そのまま自宅に帰ることにしたそうだ。
洗った資源ゴミを詰めた袋だらけの狭苦しい玄関で、彼を見送る。
「また……いつでも、いらしてください。こんな【巣窟】で、よろしければ……」
「とんでもないです。本当に助かりました。……ありがとうございます」
いつもの美しい立礼の後、見慣れたリュックを背負って、彼は階段に向かって歩きだした。
いつか、綺麗な新居に、彼を呼びたい。
次のエピソード
【16.不穏】
https://note.com/mokkei4486/n/n8a72c03b6659