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小説 「吉岡奇譚」 3

3.旧友

 私は、数年ぶりに旧友の自宅を訪ねた。
 彼はとあるマンションの上層階に一人で住んでいる。私はエレベーターに乗り込み、18階まで上がる。

 彼は、私がデビュー前に福祉作業所で働いていた頃に知り合った友人である。
 当時の私は、健康上の理由で一般就労を断念し、最も敬愛する人物のもとを離れた直後であった。(初代担当編集者と巡り会う前のことである。)
 新しい勤務先でも、私は偏見に基づく嘲笑や嫌がらせに晒されていた。一部の同僚達は、私の障害特性について手を叩いて笑い、インターネット等を通じて得た噂を論拠に、私を執拗に侮蔑した。
 そんな中で、三度の飯より作業を好み、孤独を愛する彼は、私を嗤うことなど無かった。彼は、自身の担当作業を淡々とこなすためだけに出勤し、他の従業員達がどれだけ作業そっちのけで「重症者いじめ」や「YouTuberいじり」に興じていても、決して同調しなかった。
 私にとって、彼は実に良き同僚であった。

 彼は、いつもヘッドホンを着けている。しかし、実際に音楽を聴いていることは少なく、むしろ耳を塞ぐことが主目的である。雑音を遮断して、彼だけに聴こえる【番組】を愉しんでいるのだ。(彼は統合失調症と診断されている。)
 
 彼は、玄関で私を迎えてくれた後、まっすぐパソコンの前に戻った。彼は大変勤勉だが、例の【番組】や、お気に入りの楽曲を聴きながら、その独自の世界観を活かして詩や物語を書くことも、大変好きである。自宅では、基本的にパソコンの前から動かない。
 私は、彼の許可を得てから、持参した食料を電子レンジで加熱して食べ始めた。
 彼の分も買ってきたが、彼は今【番組】に夢中である。

 彼が愉快な【番組】を聴きながら、にやにやと空笑をしているのは、知り合った頃から ずっと変わらない。
 私の幻聴は非常に差別的で殺伐としたものであるが、彼が聴いている幻聴は、基本的には愉快なものであるようだ。頭の中は楽しい音楽やトークで溢れているようで、彼はよく それを口ずさむ。そして、いかにも楽しそうにパソコンのキーボードを叩く。
 私にはラジオを聴く習慣が無いので よく知らないのだが、彼が聴いている【番組】の中でも、リスナーからのメッセージが紹介されたり、リクエストに応じて楽曲が流れたりしているようだ。また、彼が強く念じれば、その想いがパーソナリティーに届き、彼のリクエストが採用されることもあるのだという。
 【番組】には、彼の頭の中だけに存在する人物に加え、実在する芸能人が多数出演している(と、彼は認識している)そうで、彼は往々にして それを「実際にラジオで放送された」と勘違いしている。芸能界や楽曲にあまり興味が無い私は、彼が「テレビで見た」とか「ラジオで聴いた」として教えてくれる情報を、いつも話半分に聴いている。(事実でも、幻聴でも、興味が無いことに変わりは無い。)

 彼とは、基本的には互いの自宅以外の場所で会う。この家に来たのは数年ぶりだが、彼と会うのは約一ヵ月ぶりである。
 私は独身の頃、ハウスキーパーが休みの日には、食事は ほぼ外食かコンビニ弁当で済ませていた。私は、調理が絶望的に苦手だ。大学時代に発症した癲癇てんかんの影響で火気を遠ざけるようになって以来、ほとんど台所に立つことはない。(40歳を過ぎたあたりから発作は激減したが、今になって料理を学び直す気も無い。)
 彼は、よく一緒に外食をする仲間だった。彼も、調理が苦手なのである。
 彼の父親は、とある精神科病院の院長である。医学部受験に2度失敗し、重篤な精神疾患を発症した彼を「実家から追い出した」とはいえ、高価なマンションの一室を買い与え、惜しみなく仕送りを続けている。(病院の後継者候補は、彼の弟妹である。)
 彼は、福祉作業所の工賃と、父親からの潤沢な仕送りで、何不自由なく暮らしている。
 私や他の友人が金に困っていたら、快く助けてくれる。彼は孤独を愛するが、困っている人を助けることを厭わないし、数少ない友人を とても大切にする。(彼は、父親からの仕送りを「父が患者から騙し取った金」と位置づけ、それを「一般市民に還元すること」に、意義を見出している。)

 彼はヘッドホンを外し、パソコンの電源を切りながら「終わった」と言った。コンビニ弁当を「食べるかい?」と私が訊くと、彼は「食べる」と言って温めに行った。
 彼は、私が買ってきた弁当に加えて、自宅にあったカップ麺を2つ食べ始めた。
「新しい作業所は、どうだい?」
私と彼が知り合った作業所は、もう倒産してしまった。その後、彼は福祉作業所ばかりを転々としている。
「つまらない」
「つまらないのかい?」
「僕、小学校の算数くらい解る。今更『復習』なんて、馬鹿にされてるみたい」
「お勉強の時間なんて有るのかい?」
「作業の後。算数と、漢字の練習……小学生みたい。『一般就労に向けて、義務教育の復習』だって。……僕、もう辞める。つまらない」
医学部には合格できなくとも、彼は一般の高校を卒業している。知的障害や学習障害のある同僚に混じって『義務教育の復習』など、確かに「つまらない」だろう。(どれだけ優秀な人でも、傷病によって漢字や算数が「解らなくなる」ことはありうるから、一概に無意味な訓練とは言い切れないが。少なくとも、彼には合わないというのは分かる。)
「玄ちゃんなら、一般枠でもアルバイトが出来ると思うよ」
彼の通称は「玄ちゃん」である。(彼は、我が家のハウスキーパーと同年代であった気がする。私より5歳以上は若いはずだ。)
「僕、畑やりたい」
「あぁ。【農福連携】かい?今、注目の分野だよね」
私が寄稿している雑誌にも、よく取り上げられている分野だ。私も、少なからず興味がある。(しかし、私は腰痛持ちであるため、おそらく貢献度は低い。)
「先生、土地を買ってよ」
「買えないよ。お父様に頼みなよ」
「いひひひひ……」
いつもの笑い方である。(たまに、よだれを垂らす。酒に酔っていると、特に。)

「先生、旦那さんは元気?」
「元気だよ」
「旦那さんは、畑に興味があるかな?」
「うーむ……。彼は、物づくりにしか興味がないと思うよ」
「残念」
そう言うと、彼は食べ終わったカップ麺と弁当の空き容器を台所に運んだ。
 戻ってくるなり、再び質問が始まった。
「旦那さんは、お肉が好きかな?」
「好きだよ」
「絵は、描く?」
「彼は設計図しか描かないよ」
 彼は、私が結婚してからというもの、夫に関する他愛もない質問が急激に増えた。知られて困る事なら誤魔化すこともあるが、基本的には正直に答えている。本当に些細な事しか訊いてこないし、何度答えても、すぐに忘れてしまうからだ。

「あ、あ、始まる。始まる」
彼は、パソコンの前に置きっぱなしだったヘッドホンを、再び装着した。
「今日、ゲストに後藤さんが出るよ」
「誰だい?それは」
「どこかの社長さん。……ボールペンを売ってる会社」
実在するかどうかは分からない。
 彼は、ふらふら体を揺らしながら【番組】を聴いているが、時々ヘッドホンを少しだけ耳から離して、話す。
「今日、すごく、街が『ごきげん』。先生には、辛いかも」
「そうなのかい?」
「……旦那さんは、自転車?」
「今はもう電車通勤だよ」
「なら大丈夫」
再びヘッドホンを着ける。拍手をするように、それでも音を鳴らさずに、両手を素早く合わせり離したりを繰り返す。
「どこか、どこか……どこだろう?小さな男の子が、漫画を読んでいるよ。……泣いてる。……お婆さんが死んじゃった」
脈絡があるような、無いような、摩訶不思議な話をする。
「犬を探しに行かなくちゃ」
【番組】の中身なのか、彼の空想なのか……私には分からない。
 私は今日、彼から「遊びにおいで」と言われて、来たのだが……何か用事があったわけではなく、単純に私と一緒に食事がしたかっただけなのかもしれない。
 私は、夫が帰宅するまでには帰りたい。

 私が「そろそろ帰る」と言って立ち上がると、彼はヘッドホンを外した。
「あ、先生。この前、溺れたお兄さんは……元気になった?」
「今はもう元気だよ。ありがとう」
 私の【恩人】であり【戦友】とも云うべき、初代担当編集者「岩くん」は、半年以上前にスーパー銭湯の浴槽内で意識を失い、溺れたのである。浴槽内に沈んでいるところを他の客に発見されて救急搬送され、数日後には意識が戻り、目立った後遺症も無く、2週間程度で無事に退院できた。
 報せを受けた時は本当に肝が冷えたが、やはり彼は【不死身】である。心身ともに「不屈」である。


 帰宅すると、夫が既に帰っていて、ハウスキーパーが用意していた おかずを温めていた。
「諒ちゃん、おかえりー」
「ただいま」
夫は、家庭内では私をペンネームで呼ぶ。
 私にはペンネームが複数あるが、この『吉岡 諒』の名を、私は最も気に入っている。初めて【作家】として著書を世に送り出した時の名であるからだ。
「諒ちゃん、明日『総会』だよな?」
「え?……あぁ、そうだね。行かないと」
私は、夫の勤務先の株を所有している。定期的に、顔見知りばかりの『株主総会』と、その後の懇親会に出ている。
 そこで【恩師】に逢えることを、私は何よりの楽しみにしている。


次のエピソード
【4.彼の物語】
https://note.com/mokkei4486/n/ndc21697a96f1

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