妻のみぞ知る
久し振りの妻との旅行。
人気の高級温泉旅館での夜。時計は12時を指す。
トイレに立った俺はびっくりした。
暗闇の中、洗面所の灯りが漏れる扉の前で、妻が突っ立っていたのだ。
声を掛けようとしたら、妻は強張った顔で振り返り唇に人差し指を当て、『静かに』というジェスチャーをした。無言で腕を引っ張られ、俺は広縁の端まで連れて行かれた。
「洗面所の電気が点いてるの! 誰かいる! 泥棒かも!」
「電気? 消し忘れただけだろう?」
「音がしてた! 絶対に誰かいる!!」
ゆっくり内風呂に続く洗面所に近づく。耳をそばだてると確かに、カサカサと音が聞こえている。
「警察呼ぼうよ! 昼間から変だもん」
「いや待て!」俺は妻を制した。
俺は40歳。8歳上の妻と結婚して6年。妻に魅力を感じなくなってきた2年前、新入社員の女に手を出してしまった。
しっかりした妻と違い、鈍くさいところが可愛くて、今も続いている。
多少の罪悪感からこの旅行を計画したが、昼間、妻が変なことを言った。
行く先々で小柄な若い女を見かけると。
「浮気相手じゃないのー?」と、冗談交じりに言われ、笑ってごまかしたが。
「フロントに行って事情を話せ! 俺はここで見張ってる。早く!」
「うん!」と言って妻は部屋を出た。
本当に女がいた場合、逃がさなくてはいけない。これは時間稼ぎだ。
俺はそっと、洗面所の戸を開けた。
煌々と灯りが点いた洗面所には、誰もいない。
俺は戸の隙間に首を突っ込んでキョロキョロ見回した後、「ああ……」と声を上げた。
換気扇の風が、アメニティグッズを包んだビニール袋に当たっているのだ。
ホッとして戸を開け中に入った。
扉の死角から、眼鏡をかけた若い男が現れ、俺の横腹をナイフで刺した。
俺は男にしがみつき、俺達はもつれて倒れた。男は更に俺を深く刺す。
本当に泥棒だったのだ!!
妻に危害が及ばないよう、俺は最期の力を振り絞り男のナイフを奪うと、奴の首に突き立てた……。
「朝の6時頃、洗面所に顔を洗いに行ったら、夫と知らない学生さんが死んでいたんです……」
被害者の妻の証言は一貫している。それが尚更、刑事の勘に引っかかる。
夫の保険金が一億円だからか。見知らぬ男を『学生』だと知っていたからか。
もう少し捜査する必要がありそうだ。
〈終〉
写真:フリー素材ぱくたそ(pakutaso.com)