ホームスイートホーム
夕食の支度をしている間のこと。
専業主婦の希美(のぞみ)は、日記代わりの家計簿を見ながらため息をついた。
希美の傍で人形と遊ぶ、三歳になる娘の教育費。自分たち夫婦の老後にかかる費用などを思うと悩みは尽きない。
と、ここでボールペンのインクが切れた。
その程度のことでいらだつ自分に腹が立つ。
ペン立てに刺さっていた、新しいボールペンを取り出した。
ふと、暗い事ばかり考える自分に気が付いた。
これじゃいけない。悪いところばかり見て、ストレスを溜めていては人生もったいない。
楽しい事も考えようとして、
〈お寿司が食べたい〉と書いてみた。
玄関から物音がした。夫が帰ってきた。手にビニール袋を持っている。
「あ、おかえりー。何持ってんの?」
「昼に回転寿司に行ったんだ。んで旨かったから、たまにはお前達に土産と思って。ダメだった?」
ダメなはずがない。今日のおかずは肉野菜炒めだが材料は明日にまわせばいいし、今炊いているご飯も、冷凍して取っておけばいいのだ。
しかし希美には喜びより、驚きの方が勝った。
このペンで書いたことが現実になった?
どこで買ったかも、もらったかも覚えていない普通のボールペンだ。ありえない。
しかし三十歳になり、体の贅肉が気になりだした希美は、物は試しと考えた。
〈筋肉をつけて健康になりたい〉
と書いた。
炊飯器が炊き上がりを告げた。だが今夜は期せずしてお寿司だ。
ウキウキしながら希美は台所に立った。
急に窓の外が明るくなった。カーテンを開けると、燃え盛る大きなかたまりが、空から降ってきていた。
巨大な隕石が太平洋に落ちて一年が経った。
舞い上がった塵が大気を覆い、日光が遮られた地球は、氷点下の日が続いている。各国政府は食料の配給をするも、限られた資源を巡り生き残った人々の間で醜い争いが起こっていた。
日本海を渡り、吹雪の中国大陸に一人の旅人が上陸した。足元まで隠れる長いマントは背中が盛り上がり、荷物の多さが見て取れる。頭をすっぽり覆ったフードでその表情は見えない。
その旅人を三人の賊が取り囲んだ。身ぐるみを剥ごうというのだろう。だが旅人は、持っていた一本の斧で、賊を返り討ちにした。
旅人は希美だった。
この一年、希美は一人、ボールペンを探す旅に出ていた。書いた事が実現するペンを。
寿司を食べ終わった直後、隕石の影響で希美のマンションは半壊した。
逃げ出すどさくさにまぎれ、家族とはぐれ、あのボールペンを見失ってしまったのだ。
その後希美は、あれと同じ力を備えたペンを見つける旅に出た。
皮肉にも希美は、日本中を探し歩いた過酷な旅の中で、ボールペンで書いたとおりの、頑強な肉体を手に入れた。
誰ともなしに『鉞夫人(まさかりふじん)』と呼ばれるまでの猛者(モサ)となっていたのだ。
「だいぶ遠くまで来た。娘と夫は元気だろうか……。
三人で暮らしていた日々こそが宝物だった。
いつの日か必ず、『我が家が一番だ(ホームスイートホーム)』と言って、家に帰る。
あのペンの力で元の平和な地球に戻すのだ!」
希美の旅は続く。
〈終〉
写真:フリー素材ぱくたそ(pakutaso.com)