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小説に救われながら生きる

小説を読めなくなったのは、現実世界が忙しくなったころで、それは娘の障害が分かったころでもあったような記憶。若干曖昧。

でもそれとは別に、私の中から想像力というものが欠如したのかもしれず、想像力がないということは、私の中から「遊び」が失われた可能性がある。

この「遊び」がなくなれば、人生って本当につまらないものになってしまうと痛感していたけれど、元に戻すことは容易ではなくて。気づけば有益なもの以外は摂取しないという体になっていて、私の中から「遊び」はこれっぽっちも無くなってしまったような気がした。

しかし今、江國香織さんの『ひとりでカラカサさしてゆく』を読みながら、物語に没頭するあの感覚を思い出していて、こうやって没頭できる感覚を思い出せたこと、そして文章の持つ力の強さを思い知り、あぁやっぱり物語は良いなぁ、大好きだなぁと思えたので、気持ちが救われている。

仲良しの老人3人が猟銃自殺を遂げたあと、残された家族たちのそれぞれの日常が綴られた作品。

遺された家族の喪失が大きければ、物語を読み進めることが出来ないかもしれない、と思っていた。けれど、意外に日常が淡々と進んでいく物語だったので、今のところ読み進めることが出来ている。

年を取れば、どんなことでも耐えられる人になると思っていた。でも実際には反対で、年齢を重ねれば重ねるほど、ちょっとしたことでメンタルが傷つくようになってしまった。

感動する物語などで涙を流すことなんて人生で一度も無いので、私には情緒が欠けていると思っていた。それが今では、感動するという触れ込みのCMだけで涙が出そうになるのだから、人間って、どういう風に成長していくのか本当に分からない。

自分という人間のことだって、新たな発見の連続を繰り返していくのが人生かもしれない。ということは、家族のことなんてもっと分からないんだ。でもそれで良いじゃないか、分かったつもりで決めつけるよりはずっといい・・はず。

そんなことを思いながら『ひとりでカラカサさしてゆく』を読んでいる。親を失った息子や娘たち、そして祖父母を失った孫たちの日常を読みながら、家族というのは嬉しくもあり、楽しくもあり、面倒でもあり、分からないものなのだな、と改めて思った。

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