分断を生む人々
○初めに
少し前の話になりますが、足立区議が「LGBTを法で守れば足立区が滅ぶ」という趣旨の発言をしたことを話題になりました。これに対して様々な批判が巻き起こり、これをメディアでも広く取り上げられましたが、中でも目立ったのは「こいつは正しい知識を知らない」という趣旨の発言をするコメンテーターたちでした。例えばアベマプライムにおいて小島慶子という方は「同性愛は趣味ではない、同性愛になろうとしてなるものではない、正しい知識が重要で良い本が今は出ているから勉強して欲しい」という趣旨の発言をしたいましたし、某せやろ○いおじさんなんかも「法制度が変わったからといって性自認や性的志向は変わらない、足立区議の発言は無知で不勉強な発言だ」という趣旨の発言をしていました。別に例の足立区議を肯定するつもりは全くないですし、本記事で一番主張したいことは「イシューを取り違えた説得は全く世の中の役に立たずむしろ害である」ということですので注意してほしいのですが、それでもあえて誤解を恐れずに言うと、私は二人のような人々に対して蒙昧な人間だな、という印象を抱きました。むしろこのような人間たちが社会の分断を生んでいるとすら思います。以下その根拠を述べていきたいと思います。
○二人の何が問題か
二人の主張に共通しているのは、「性自認や性的志向は法制度の変更で変わらない」「あのような発言をした足立区議は無知で不勉強」の二点です。私はどちらも発言の意味が間違っていると思うし、そもそもそのような発言をする心根を全く肯定できません。ではそれぞれ何が問題か、そしてこの議論の根底に潜む問題点について述べましょう。
・「性自認や性的志向は法制度の変更で変わらない」
確かにこの主張自体は正しいでしょう。そして確かに足立区議の発言の問題点はここにあります。性自認や性的志向に関する教育や法制度の整備が、当事者の考えに直接影響を及ぼすことはゼロではないにしても目くじらを立てるほどではない。例の足立区議はここを勘違いしている節がある。
しかし私は一方でこの主張で彼を説得することはできないだろうし、そもそもこの論点を取り上げること自体が間違っていると思います。以下どういうことかさらに詳しく説明しましょう。
法制度がジェンダーの自由を保障し、国が教育の内容にジェンダーを取り込むことは、社会的な規範としてある種「最終的な」決定をすることに等しい。例えばこれに反した形で家庭の教育が行われる場合はあり得ますが、ただ制度や義務教育段階でのジェンダー教育はカウンターパーティーとなる思想を知る機会の担保に繋がるわけです。つまり教育と法制度は最も強力な拘束力と周知力を以て、社会の規範を強烈に生成する。ではこれが何をもたらすかというと、そうしたジェンダーに理解を持った人々です。さらに言えばそうした人々が構成する社会、会社などの組織、そして友人や恋人など本当にミクロな関係までジェンダーへの理解を付与することができる。私としてはこれが現代における幸福をむしばむ「病」を退治するに違いないと確信しているため、強力に支持したいと考えています。
ではその病とは何か。それは多様な個の在り方を排除し画一な規範に押し込めようとする同調圧力です。これがゆえに子供を持たぬ夫婦が、同性を愛する人々が、愛するとは何か確信を持てない人々が無神経な人々に自分らしくいるという権利を侵されている。しかし現状ではこれがゆえに同性を愛していたとしても結婚し子供を持つ人もいる。ジェンダーとはそもそも社会に大いに規定されるものです。男らしくいなさいと育てられたから男らしく振舞う。異性を愛することが自然だと皆が言うからそうする。人々は「普通」で今の自分を形作っている。あるいは「普通」におびえて「普通」であるかのようにふるまう。だから足立区議の意見というのは当たらずとも遠からずのような側面があって、今まで抑圧されてきた個人の解放が進むというのは間違いありません。だから二人の「法制度や教育によって性自認や性的志向が変わらない」という発言は、確かに正しいけれども議論がかみ合っていない。例の足立区議からしてみれば本心に影響を及ぼさずとも結婚し子供を産み育てるかいなかという社会的な振る舞いに影響する可能性は残るのだから、少子化を憂うがためにジェンダーの自由を抑制しようとする彼への有効な反論にはなっていないのです。
さらに私から言わせてみれば、たとえ法制度や教育が性的志向や性自認に影響を及ぼしてそのうえで少子化に影響したとしても、各個人の生き方は尊重されるべきだと考えていますから、そもそも変わるかどうかは問題ではありません。また性自認や性的志向が法制度や教育によって全く変わらない物だ、と言い切ってしまうのもおかしな話です。人は経験を積み重ね、自分自身とは何かという対話を積み重ねて自己というものを形成していく。そしてそうした経験や対話は常に自分を刷新し続け、新しい自分へと絶えず生まれ変わらせている。私は性自認や性的志向のみがそれを免れるとは到底思いませんし、教育がその機会にならないとも言い難い。私は「自分」の性質が不変であるに違いない、という思想が、自己の変化に対する受容性のみならず他人の変化に対する受容性すら失わせることを恐れます。教育や法制度がジェンダーの自己認識を些かも揺れ動かさないように言い切ってしまうことは、例の足立区議のような人々に性自認や性的志向が全く変わらないという誤解とそれに反する事実を耳にすることによって抱く不信を招き、ついには社会の分断すら呼び起こしかねない。多様な性の在り方を認めたからといって少子化は進まない、と言いたいがために法制度や教育が影響するか否かを論点にして、ましてやジェンダーの自己認識が不変のものであるかのように言うのは、本末転倒としか言いようがありません。
各個人の生き方が等しく尊重されることは、少子化に影響を及ぼすならやめよう、といった類のものではないはずです。もし少子化に影響を及ぼすのならば、少子化を食い止める違う道を探し出そうというのが本来あるべき姿です。
・「あのような発言をした足立区議は無知で不勉強」
確かにかの足立区議の発言は思慮に欠けるものであったし、正当な根拠に基づかない部分もありました。しかし「無知で不勉強な人間だ」とレッテルを貼る行為は何をもたらすのでしょうか?確かにこうした発言をする人間を、「普通」という暴力によって萎縮せしめ、再び発言させない効果はあるかもしれません。しかしそれは「子供を産まない人間は普通ではない」と「普通」によって弾圧しようとする人々と何が変わらないのでしょうか?それでいて私は個人を尊重しますとうそぶくなど、どの口が言うのだと私は主張したい。一見個人を認め合おうという人間に見えて、その実全体主義的な心根を持っているように私は見えます。こうした人間が次の「普通」を作り出して分断を生み出すのかと思うと寒気が止まらない。
そもそも「無知」であったとしても、勉強すればよい。今は良い本が色々出ていてそれを読んだらよいのではないかしらではなくて、どういうところが間違っていてそれにはこの本を読むとよい、あなたの不安はこういうデータとロジックがあって解消される、と対等な立場に立って議論しなければ、それこそ「無知」なものは誰も発言しなくなります。知らないことは罪ではありません。知らないことを根本から改善しないことそのものが罪なのです。自分の知らないことを知り改善しようとしない人間は罪ですが、相手の知らないことを嘲るだけで何もしないのはより深き罪に違いありません。
・そもそもの問題点
そもそも例の足立区議の不安は、少子化が進むことにあります。だからそれに関係なければそもそもジェンダーの問題などどうでも良いに違いありません。アメリカなど欧米におけるジェンダーに関する議論と根本的に違うのはそこです。欧米はキリスト教的価値観との対立からジェンダーの問題を見ている。思想信条の違いから対立しているわけですから、ここにどちらも配慮した折衷案など存在しません。どちらかの思想が勝つか、ただそれだけの話です。しかし日本はそうした忌避の価値観は存在するとは考えにくい。杉田水脈しかり、例の足立区議しかり、子供が生まれるか、そして持続的に日本社会が継続していくかという問題を一番解決すべきものとしたときに両立が難しいと考えるから、そうした発言をするのです。だから折衷案を提案すればよい。例えば今までは血縁によって子どもは育てられてきましたが、そうではなく多様な育て方があっていい。多様な育て方を是認することで子供を産む人を増やし、少子化への対抗策とする。パパとママがいなければならずパパとママが育てなければならない、なんていう価値観がそもそも古臭くてそれが子供を産むことの枷になっているのではないかということです。別に祖父母だっていいし、兄弟だって、そうじゃなくてレズビアンのカップルが育てるでも、何なら友人同士が育てるでもよい。子供を育てる関係性が規定されなければならないという価値観を崩して社会全体が育てることで、育児の負担を軽減する。そうなると気軽に子供を産むだけの人が増える、と主張する人がいるかもしれませんが、それでも良いではありませんか。重要なのは子供が安定的に育つ環境です。安定的な人間関係の中で育つ枠組みをどう作るか、慎重に行えばよいのです。多様なジェンダーの在り方を認めつつ、それに伴った形で多様な育て方を包摂する社会を実現しようと呼びかけることで、少子化を第一に憂う彼の意見に対する有効な反論となるのではないでしょうか。
○まとめ
法制度や教育が性自認や性的志向に何らの影響を及ぼさないというのも反論としては不適切だし、無知だとレッテルを貼る行為も逆に本来あるべき多様な個人を尊重しようという考えに矛盾します。さらに言えば彼の意見に反論するにあたって、何をイシューとするかがそもそも間違っている。相手の考えることを汲んだ反論をしなければ相手はますます意固地になりますし、そうした考えを持つ人々と共存する道は絶たれて社会は分断されます。だからこそ我々は相手がどういったことを動機に、何を根拠として主張しているかに対して慎重に耳を傾けて、丁寧な対話と議論を行わなければいけません。一般には例の足立区議のような人々が社会を分断に導くのだと考えられているのでしょうが、それに対して「普通」を持ち出し弾圧しようとする人間もまた、等しく社会を分断に導く存在であることを忘れてはなりません。ましてや後者のような人間はその事実に対して無自覚ですから、よっぽどたちが悪いと言えます。
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