【小説】「生き直し ~私を探す旅~」 第三話
だんだん、時空の移動に慣れてきた。上から眺めているだけで、どんなことが行われているのか、どんな会話をしているのか、その時の自分がどんな気持ちでいたのか、受け取ることができるようになってきていた。
「あれは、小学校四年生の時の私だわ」
「なんで、そんなに学年まで分かるの?」
ティムは驚いたように聞いてきた。
「初恋の男の子も一緒に見えたからよ」
私は、少し顔を赤らめて答えた。
「ふうん。初恋ね」
ティムは少し、焼きもちをやいているみたいに少しぶっきらぼうに言った。
「今でも覚えてる。悲しかった出来事」
「何かあったの?」
ティムは心配そうな顔で聞いてきた。
「初恋の男の子の誕生会に私も誘われたんだけど、ピアノのお稽古があるからって、母が断ってしまったの」
私は俯いた。当時の情景と感情が蘇ってきた。仲良しの子たちはみんな、誕生会に行くって楽しそうだった。私には、みんなには普通にある自由な時間がなかったのだ。毎日、毎日、下校してから夕食と宿題とお風呂の時間以外は、ずっとピアノの練習をしていた。だから、毎日だいたい四時間はピアノの練習をしていたと思う。でも、母はまだまだ足りないというのだ。母とピアノ講師とのあの忌まわしい記憶を、私は再び思い出していた。
あんな不義な行為をする母親の言うことを、私はずっと素直に聞いてきたのかと思うと、抑えきれないくらいの感情が湧いてきた。今まで感じたことのない、激しい怒りの感情だった。
「私、『ここ』に降りて、生き直したい」
気付いた時には、ティムにそう言っていた。
ティムは難しい顔をして私を見つめた。
「ねえ、萌ちゃん。たった一回しか『生き直し』はできないんだ。ここで初恋の男の子の誕生会に参加することが、萌ちゃんのこれからの人生を良い方向に変えてくれるとは僕には思えないんだ」
私はティムの言葉の意味をよく考えてみた。たしかにその通りだ。『ここ』を『生き直し』ても私の人生は変わらないだろう。四年生の時のことを今日の出来事のように感じてしまっただけなのかもしれない。
「そうよね。たった一回の『生き直し』は感情に任せて決めるのは良くないわよね。自分の心にしっかり問い掛けて『生き直し』すべき所かどうか判断しなくては」
「そうだよ萌ちゃん。もっともっと大事な局面があったはずなんだ。君が一番、やりたかったけど出来なかったことってどんなこと?」
ティムの問いにこれまでの人生を思い返した。いくつかある中で、一番辛かったことが思い浮かんだ。それは高校入試の時に、自分が希望する高校を両親に打ち明けることもできなかったこと。そして、高校入試が終わる頃には両親が離婚していたということ。同時に思い出す出来事だ。
「思い浮かんだ岐路があるの。中学三年生に『生き直す』べき『ここ』があるわ」
「じゃあ、すぐに行ってみよう」
ティムと私は、急いで時空を移動した。移動中に、小学校の卒業式や、中学校時代の体育大会や、ピアノコンクールなどの映像が浮かんでは消えていった。
間もなくして、中学校三年生の私が見えた。中学校三年生と言えば、進路選択をする大切な時だ。私にとって初めての受験だった。父と母の意見は、最初から食い違っていた。父は、地元で有名な難関北西高校への受験を勧めてきた。母は、音大につながるような芸術音楽科コースのある芸術大附属高校への受験を勧めてきた。私は、そのどちらにも関心はなかったのだ。
この日の夕食時も、当然のように父と母は口げんかを始めた。夕食のリビングが家族団らんの平穏な場であったことなど、私の記憶に残る限りなかった。
「ねえ、あなた、萌歌の将来のこと、しっかり考えて下さっているんですか? あの子の強みはピアノなんですよ。わざわざ難関の北西高校なんて受験しなくてもいいじゃない」
「お前こそ、分かってない。将来、自分を養えるほどのピアニストになれる人なんて、何億分の一しかいないんだよ。もっと、現実に目を向けるべきだよ」
「あなたの方が分かってない。心外です」
「お前の方が、おかしなこと言ってるよ。いつまで夢を見てるんだ。目を覚ました方がいいんじゃないのか」
父は、テーブルを両手でひどく叩いた。そして、テーブルの上にあったマグカップを、母親めがけて投げつけた。そのマグカップは、ある程度の速さと威力を保って母親の腕に当たり、床に打ち付けられて割れた。
母親の悲鳴が辺り一面に響き、床一面にガラスの破片が飛び散った。
「痛いじゃない! あなた、それは暴力よ!」
「お前が、俺の言うことを聞かないから悪いんだ」
父は、ドアを蹴飛ばしてリビングを出て行った。母も、ドアをバタンと力の限り荒々しく閉め、自分の部屋に戻って行った。ガラスの破片と中学生だった私だけ、リビングに取り残された。母がすすり泣く声が聞こえてきた。
中学三年生だった私は、放心状態で自室に戻り、母親のすすり泣く声が聞こえなくなるように、この出来事を忘れられるようにと毛布にくるまった。部屋の隅で、息を潜め、泣きながら呆然としていた。「私が行きたい高校は、そのどっちでもないのに・・・・・・」予約した動画が配信され、番組から歌が流れていた。その美しい合唱曲は、私の心を慰めてくれた。
上空から見ていた、私とティムは顔を見合わせて、肩をすぼめた。
「これは、辛かったね」
「この頃が一番、父と母のけんかがひどくって。父は時々、別人のように荒々しくなって、母を叩いたり、物を投げつけたりしていたわ」
「今でいうDVのようなものだね」
「そうなの。父が母に暴言を吐いたり、暴力を振ったりしている間中、私は部屋の隅で毛布に隠れていたの。見るのも、聞くのもこわくって」
「萌ちゃんが、自分の思いや意見を言いにくい状況にあったのは、自分が意見を言うことで両親がさらにけんかをするんじゃないかって心配していたからなんだろうね」
「今ならそう思う。でもあの頃は、なぜ私は、自分の思いや意見を言えないんだろう? 黙ったままの子供なんだろう? 分からなかった。だから、友達と関わるのも恐かった」
「感情にふたをして自分を守っていたのかな」
「私はピアノに感情をぶつけていたのだと思う。だから、私はあんなに多くの時間をピアノの練習に費やすことができた。だって、ピアノを弾いている時だけ、私は悲しみをぶつけることができたのだから」
「それで、萌ちゃんのピアノの音には、悲しみが宿っているんだね」
両親はこの後すぐに離婚をして、母に引き取られた私は母の希望通り芸術大附属高校に進学をし、父からの仕送りも頼りにしながら、女手一つで育ててもらった。余計に母の意見を忖度するようになっていった。
音楽の道を進路とすることは多額の費用がかかるため、男性から支援をしてもらう術を覚えることにもつながってしまった。母からおこづかいをもらう代わりに、当時、親切にしてくれた「おじさま」からおこづかいをもらっていた。分類するならば控え目な「パパ活」のようなものだったのだと思う。いつか自分の元を過ぎ去って行く偽りの関係なんて、忘れてしまいたい。
「この頃の萌ちゃんは、自分の意見を伝えることを、完全にあきらめていたんだね」
「ねえ、ティム。私は『ここ』を選択して、生き直してみたい。両親に伝えたいことがあるわ」
「そうだね。『ここ』を選択して『生き直し』することは、この先の人生をきっと良い方向に変化させてくれそうだね」
ティムは私の意見に同意してくれた。
「それで、どうやったら生き直しできるのかしら?」
ティムの説明によると『生き直し』するための潜入の仕方よりも、戻り方の方が難しいようだった。ティムは私の服の上を軽々よじ登って私の肩に座り、目の前で説明を続けた。
「『生き直し』から戻ってくるには、萌ちゃんの気持ちが昇華したら、つまり、満たされたら自然とここに戻って来ることができるんだ。だから、逆に難しいんだよ。満たされない限り、『生き直し』をずっと続けなくてはいけないんだから。しかもタイムリミットまでに」
「タイムリミットに間に合わなかったらどうなるの?」
「もしも、三日と三時間三分で戻れなくなってしまった場合は、萌ちゃんの命が消失してしまうことになる。だから絶対に成功させよう」
「分かったわ。やってみる」
私は目を閉じて、満たされて戻ってくる自分の姿を想像した。
「えっと、まず、当時の私の上空まで行って『ここ』に戻りたいと、強く、強く念じるのね。心を落ち着けて『ここ』に戻りたい。戻りたい・・・・・・」
自分が無になっていくようだった。
「あ、『今の私』が、『中学三年生の私』に吸い込まれていく」
光のようになった私は、当時の私の意識の中に潜入した。
潜入した翌日、朝食の時間は重い空気が流れていた。父はまだ、自分が怒っていることをアピールするかのように、そっけない態度を取っていた。母もよそよそしい態度だった。
「いただきます」
その重苦しい空気を破りたくて、タイムリープした「今の私」は、元気に言ってみた。だが父も母も無反応だった。私は、なんだか悲しくなった。
「お父さん、お母さん、私には行きたい高校があるんだけど」
二人とも、あまりにも突然のことに、声が出なかった。びっくりしている二人を尻目に、
「私は、北西高校にも、芸術大附属高校にも行かない。私がやりたいことは、もっと他の場所にあるの。私の気持ちも考えないで、毎日、毎日、勝手にけんかばかりして、二人ともダイッキライ!」
思い切り大きな声で言うと私は、いったん自分の部屋に戻り、昨夜のうちに準備をしておいたリュックを持って玄関から外に出ようとした。
「萌歌ちゃん」
「どうしたんだ。萌歌らしくないぞ」
戸惑っている様子が伝わって来る。
「私、もう、この家になんて帰って来ないから。サヨナラ」
そう言うと、玄関のドアを乱暴に閉めて、勢いよく走り出した。その後を、父と母もすぐ追い駆けてきた。
「待って、萌歌!」
「待ちなさい!」
「お前の育て方が悪いんだ」
「あなたが乱暴だから、萌ちゃんは怖がって出て行ったのよ」
「お前こそ、いつもカリカリして。もし自殺でもしたらどうするんだ」
「自殺だなんて言わないでよ」
私が途中の路地で姿を隠していると、二人が口げんかをしながら通り過ぎて行くのが分かり、うんざりした。
この後どうしようか考えながら、学校とは反対の方向に必死に走った。けんかばかりしている二人が少しでも反省してくれればいい。そして、できることなら私の意見を聞く姿勢をもって欲しい。そう思った。
両親から姿を隠している間に何をしようかと考えていたら、自分がやりたかったことを思い出した。やりたかったことを一つ叶えてみよう。
それは、三つ隣の駅にあるグランドピアノで、ストリートライブをすることだ。私は、ピアノを弾くことが好きだ。というよりも、ピアノを弾くことくらいしかできることがない。だから、自分のピアノの音が、どのくらい誰かに届くのか、どのくらいの人が足を止めて聞いてくれるのか試してみたかった。以前テレビで見た「空港ピアノ」のように。旅から帰って来た人、仕事や学校から帰って来た人、これから出発する人々の感情に働き掛けるような音楽を届けてみたいと思った。
私は、自宅から一番近いJRの駅に向かい各駅停車の電車に乗り込んだ。どんな曲を弾いてみようか電車に揺られながら色々考えた。四十分ほどで浜松駅に到着した。胸の鼓動が高鳴った。
「誰か一人でも立ち止まって聞いて欲しい」
そう願わずにはいられなかった。
電車から降りて階段を下った先に、それはあった。かなりの存在感を放っていた。艶々と光る白いグランドピアノだ。私は、ずっとスキだった人に出会えたみたいにドキドキと高揚しながら近寄った。人差し指でひとつだけ音を鳴らしてみた。澄んだ音が、駅の構内に響き渡った。私の胸に深く染み入るような、華やかで、クリアな音だった。そのピアノにはYAMAHAと刻まれていた。YAMAHAのピアノは比較的鍵盤が軽くて弾きやすく、ステージ映えする軽やかな音が鳴る。
その頃、父と母は、学校と交番に家出の連絡をし、私の行きそうな場所をあちこち探していた。
「萌歌が行きそうな所、他にどこだろうな」
「あなた、楽器屋さんじゃないかしら?」
「よし、じゃあ、駅前の楽器屋さんに行ってみよう」
二人は、娘の家出というこの非常事態にけんかを休戦したのだという。何年かぶりに会話が成立していた。駅前の楽器屋に、私の姿があるわけもなく、二人は途方に暮れていた。その店は昔からずっとその場所にあり、かつて両親が若く、仲が良かった頃よく訪ねていた場所だった。
「ねえ君、疲れただろう。少し休まないか?」
「そうね、あなた。朝から、ずっと探し歩いているものね」
「あの頃よく行ったカフェ、まだやっているようだね」
二人は、楽器屋の二階にあるカフェに向かった。階段は、美しい幾何学模様が描かれたタイル張りになっていた。コーヒー豆の優しい香りが漂っている。ドアを開けると、カランコロンとベルが鳴り響いた。二人は、昔よく一緒に食べたオムライスとブレンドコーヒーを注文した。
「君は、今でもオムライスが好きなのかい?」
「そうね。お店で食べるとおいしいもの」
コーヒーのマグカップを置いて微笑んだ。その笑顔を見て、父は言った。
「ぼくたちは、けんかをするために結婚したわけじゃなかったのにな」
「そうよね。私たちは、仲の良い夫婦のままでいるつもりだった」
「お互いの意見が違ったって、もっと話し合ってくるべきだったね」
運ばれてきたオムライスを、二人は黙って食べていた。母は時折、父がおいしそうにオムライスを口に運ぶ様子を見ているようだった。オムライスの味は、昔と少しも変わってはいなかった。
「ねえ、あなた。話し合うのは、今からでは遅いかしら?」
「分からない。やってみなくては」
「まずは、萌歌の高校のことを話し合いましょうよ」
「そうだな。本人の意思を尊重すべきだよな」
「萌歌を私たちの思い通りに育てようとし過ぎていたのかもしれないわ」
「僕たちは、先回りして、こうしたら、きっといい人生になるってことばかりを優先しすぎたね。いつまでも子供扱いして。萌歌には萌歌の考えや人生があるってことに気付かないふりをしていたのかもしれないな」
「その通りだわ。あなた」
母の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。