【小説】「生き直し ~私を探す旅~」 プロローグ・第一話
プロローグ
ショパン『夜想曲十三番』、ショパンが恋多き女ジョルジュ・サンドと暮らしていた頃の作品だ。夜想曲とは、つまり男女が夜に奏でるラブソングではないかと私は思う。音大のホールで、明日のピアノコンクールファイナルに出場する人向けに開かれたリハーサルで、私は今、演奏している。二倍速の箇所で、指がもつれてしまい、感情が絡みつく。二回目の主題の旋律に感情を込めようとすると、突然、ジョルジュ・サンドの顔が浮かんできた。
私は、曲を演奏するときに、その曲のもつイメージを物語にして、楽譜に書き込んでいる。曲の進行に合わせて物語を展開させながら音で表現する。ショパンの夜想曲を弾こうとすると、どうしても子供の頃の出来事が頭をよぎり、途中で弾けなくなることがあるのだ。今日も、そうだった。ショパン夜想曲十三番の切ない、悲しい、優美なメロディーがトリガーとなり、頭から消し去りたい出来事が、不意に襲ってくる。どうしても優勝したいピアノコンクールを前に、呼吸は浅くなりめまいが襲った。私は急速に平静さを失っていくのが分かった。
その夜、私は人生に深く失望していた。沼の底に落ちていくように眠りについた。明日は、人生を賭けたピアノコンクールファイナルの日だというのに。リハーサルを兼ねた練習もうまくいかず、私は、咳止めシロップをいつもより多く飲んで、ぐっすりと眠るつもりだった。甘いシロップの味が安心を誘う。私は間もなく限りなく深い沼の奥深くに吸い込まれるように、落ちていったのだ。限りなく深く、冷たい、緑青色の沼に。
第一話
翌朝、目を覚ますと見知らぬ場所にいた。
「私は一体、どこにいるのだろう?」
辺りを見渡すと、どうやら針葉樹の森の中にいた。緑青色の木々の奥は、さらに薄暗く、冷たい風が吹いていた。その先が見えないくらい深い暗闇の洞穴のような入口も見える。
「ここは?」
目の前に、男がいることに気付いた。
「ここは、『人生最期のトンネル』です。あなたは、昨夜、自らの命を絶とうとした。だが、まだ最期のお迎えは来ていない」
男は、片手に持った小型のタブレット端末を見ながら言った。
「何をおっしゃっているのですか? 死ぬつもりなんてありません。明日は、私のこれまでの人生を賭けたピアノコンクールファイナルの日なんですよ。予選、セミファイナルと、ずっと勝ち残ってようやくここまで来たのです」
「いや、あなた、つまり、花田萌歌さんは昨夜『咳止めシロップの過剰摂取により自殺を図った』という報告がメールで届いています。それで、ここに連れて来られたのです。ほら、オーバードーズというアレですよ」
私は、目の前にいる男が誰なのか分からなかった。その男は、えんじ色のスーツを着て、帽子には緑色の羽が付いている。
「あなたは?」
「わたくし? 私は、『人生最期のトンネル』の門番、今風に言えば、コンシェルジュの沖田と申します」
沖田という男は手を胸に当て、まるでドラマに出てくる紳士のように言った。
「『人生最期のトンネル』ですって?」
「では、御説明しましょう。そこに見える洞穴の入口が『人生最期のトンネル』に繋がっています。人生に深く失望している人が、死ぬ間際に連れて来られるトンネルで、その人が、本当に死に値するかどうかを見定めるためのものなのです」
「死に値するかどうかって、死ねない人がいるっていうことですか?」
「そう、その通りです。勘がいいですね、萌歌さん。あなたは、まだ、死に値するかどうか分からないということで、ここに来ているのです。つまり、人生に失望しきっているか、人生のミッションを達成したか、いずれかでないと死ぬことはできないのです」
「私は、たしかに人生に深く失望しています。でも、まだ死にたくはありません」
私は、そのコンシェルジュを名乗る沖田という男に鋭い視線を投げつけ、強い口調で言った。
「死にたくなかったのですか? その思いは、天空の世界に届いてはいないのです。あなたは、多量の咳止めシロップを服用したということで『自ら死を選んだのでは?』つまり『死にたい』という御希望があったという疑いをもたれているのですから」
「それでも」
くちびるを噛みしめ、体の底から声をしぼり出した。
「私は、まだ死にたくはないのです。人生の全てを賭けて、明日のピアノコンクールファイナルのために時間を費やしてきたのですから」
コンシェルジュの沖田さんは、私の言葉に偽りがないか心の奥まで読み取って審議するかのように、私を凝視して、尋ねてきた。
「あなたが、死にたくなかったのだとしたら、なぜ、あのようにオーバードーズしてしてしまったのでしょう? 本当に、死ぬつもりがなかったと言えますか?」
「沖田さん。私は、ただ不安から解放されて、眠りたかっただけなのです。明日のピアノコンクールファイナルで、どうしても優勝したくて。人生を賭けていました。だから、死ぬつもりなどありませんでした」
「わたくし共は、萌歌さん、あなたが『死にたいのか』『死にたくないのか』諮りかねているのです」
私は俯いて、瞳をゆっくり閉じた。そしてゆっくり顔を上げ、コンシェルジュの沖田さんを力なく虚な目で見た。
「そこまで言われると、私自身でも、分からなくなります。死ぬつもりはなかったはずなのに、危険と知りながらも飲み過ぎてしまった」
「今、あなたの生死については審議中のため、あなたの体、本体は、救急病院の集中治療室のベッドの上です。他の人が見たら、意識不明の昏睡状態に陥っているというわけです」
「昏睡状態なんですか? 私は! 明日のコンクールにどうしても出場しなくてはいけないのです。生きて、出場しなくてはならないのです」
コンシェルジュの沖田さんは、困った表情を浮かべた。
「どうしたらいいでしょう?」
私は力なくその場に座り込んでしまった。
唇の端と眉毛を少しだけ上げて笑顔を作り、コンシェルジュの沖田さんは語り始めた。
「このトンネルを戻っていくと、今につながる岐路に遭遇します。その岐路をもう一度、『生き直し』することで、今、あなたが死ぬべきか、生きるべきか、またはもっと違う未来につながるのかはっきりしてきます」
「『生き直し』ですか?」
私は、コンシェルジュの沖田さんの顔を、見つめた。
「そうです。私達は、過去に戻って人生をやり直すことを『生き直し』と呼んでいます」
「私が、自分の過去に戻って、もう一度、人生をやり直すということなのですね」
「そうです。あなたは、遭遇する過去の様々な岐路のうち、一つだけを自分で選択して『タイムリープ』することができるのです」
コンシェルジュの沖田さんの説明によると、「タイムトラベル」が体ごと時空を移動することになるのに対して、「タイムリープ」は、体の感覚はあるが、意識だけが過去をさかのぼり、その時空の自分自身の体に乗り移りその場面を生き直すことができるようだ。限られた状況の人だけに起こる、特別な移動のことらしい。
そして、『生き直し』をすることで運命が変わったら、「死にかけたポイント」ではなく新しい運命にふさわしいところからもう一度、人生を『生き直し』するのだという。
聞き慣れない言葉に、私は戸惑っていた。
「あなたは、まだ死んではいないのです。恐らく、やり残した大切なことがある。なのに、死にたがっていた」
「わたしが、死にたがっていた?」
私は心の奥底を見透かされた気がして、俯いた。
「全てを犠牲にしてピアノコンクールに賭けてきたとおっしゃっていましたが、あなたは、そのピアノコンクールに心から自分の意思で出場したかったのでしょうか?」
「そう言われると、分かりません。私は、これまで自分の意思で自由に決めてきたことなんて、何一つないのですから」
「何か、大切なことを人生のどこかに忘れてきてしまった方のようですね。あなたのような人こそ、『人生最期のトンネル』で、自分の人生の出発地点に戻るべきだ」
私は、やはり、死にたがっていたのかもしれない。自分の意思で自由に歩んでこなかった人生に、本当は嫌気が差していたのかもしれない。甘すぎるシロップが引き起こす危険は、充分認識していたのだから。無意識のうちに死を求めていた。いいえ、死を求めていたのではなく、ひょっとしたら私は、「自由」を求めていたのかもしれない。
「そのトンネルで、時空をどう進んだら良いのでしょう?」
「トンネルの中に入ると時空の波に乗って自然に体が宙に浮かびます。宙に浮かんだ状態で時空をさかのぼり、出発地点に戻っていきます。そこから自分の人生を見つめ、心をフラットにして『生き直し』したい所で降りて下さい」
「時空の波に落とされない」「心をフラットにする」とは? 次々に疑問が浮かんだ。
「一つだけですよ。自分の心にしっかり問い掛けて、『生き直す』べき所かどうか判断をお願いしますね」
たった一つだけ『生き直す』べき所を選ぶ。それはとても難しいことなのかもしれない。
「一番、大切なことを今からお伝えします。心の準備はいいですか?」
コンシェルジュの沖田さんは、瞬きもせず、私の顔をまっすぐ見つめてこう言った。
「『人生最期のトンネル』に入ってから戻ってくるまでのタイムリミットは三日と三時間三分です。絶対に遅れてはいけません。もしも、一秒でも遅れてしまうと、その時点で、あなたの命は消失してしまいます。必ずや、お気を付けて」
タイムリミットを過ぎてしまうと命が消失すると聞いて、震えが止まらなくなった。自分の力では、どうしようもないくらいに肩も足も震えている。つまり、死を恐れ始めている。一秒でも過ぎたら、今度こそ間違いなく死んでしまう。たった一秒、間に合わなかったという理由で死んでゆくことになるのかもしれない。
でも、命と引き替えに「自由」が手に入るのであれば、それならそれで、いいのかもしれない。私は、何かが吹っ切れたような心持ちとなり、ゆっくりと立ち上がった。
「分かりました。やってみます。私の人生を取り戻しに」
コンシェルジュの沖田さんの向こう側を、緑青色の木々のはるか上へ向かって、小鳥が飛んで行くのが見えた。森の上空からは、木々の隙間をぬって、やわらかな日差しが降り注いでいる。この男の言葉を信じてみよう。
私が、考えごとをしていると、コンシェルジュの沖田さんがこんなことをつぶやいた。
「あなたには、ティムというポケットサイズのシマリスが同行すると思います。元は人間で、訳あってシマリスに転生して活動中なんですがね。何度か『人生最期のトンネル』を行き来しているので、きっとお役に立てると思いますよ」
私は、そのポケットサイズのシマリスと一緒に時空の移動をしたいと願った。一人で時空を彷徨うのは、少し寂しすぎる。人生において最も大切なのは、愛を語る恋人ではなく、自分を理解してくれる「話し相手」ではないかと私は思っている。
なぜなら、これまでの経験で、恋人とは「愛を語り尽くした後、いつか自分の元を過ぎ去って行くもの」だと知っていたから。