心は心の奥を知らない
「波止場」は、湯治先で一人の男と懇意になった「私」が、その男と妻が仲良くなりすぎたため帰ろうとするところから始まる。波止場につくと、なぜか船にその男が乗っており、妻だけが乗ったところで船が出てしまった。船の客が汽車に乗り換える駅まで駆けつけたが間に合わず、次の汽車に乗った「私」は怪しげな相客を見ているうち悲しくなる。
出て来た涙を見た後で、始めて心の奥の事を知る・・なるほど自分の発した言葉や体調の変化に、自分の「心の奥」に気づくことがある。何かをやってみて初めて、ああ、自分はこれがやりたかったのだ、と知ることもある。心の奥を魂だとすれば、心のレベルでは決めていなかったことを、魂のレベルでは決めていた、ということであろう。それでも、きっかけとなるような出来事や行動がなければ、心は魂の意向に気づかないままである。
あるいは、ふと目にしたものがきっかけで決心がつくこと、たとえば金沢へ旅行に誘われたが気が乗らず迷っている時、たまたま金沢の名物が目について行く気になる、という類も、心の奥では出ていた結論が、ゆかりのある物事に共鳴した、と考えられるのではないか。
心と心の奥。両者の意向がずれたままでも違和感がなければいいのだが。ずっと違和感を抱いたまま人生を送ったり、その終盤にさしかかってから、ああ、自分は本当はこういうことをやりたかったのだ、と後悔したり、というのはごめんだ。とはいえ、私たちは心の奥の声を聴く方法を持たない。何かの拍子にあふれてきたものを見たり、何かと共鳴するものがあったりした時に手がかりを得るのみである。
これが誰かの声が聞こえないのだとすれば話は簡単で、より大きな音にかき消されているか、ほかのことに気をとられているかのどちらかであろう。もしかしたら、心の奥の声が聞こえないのも、心の声が絶え間なく聞こえているせいだろうか。心のおしゃべりをいったん止めてみる、要はぼーっとする時間を増やせば、何か聞き取ることができるかもしれない。(2020.1)