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電光のように通じる言葉

言葉というものは電光のように通じるもので、それは聞く方がその言葉を待っているからである。   

山本夏彦『毒言独語』

言葉が通じるか通じないかということは、理解という視点で語られるものだとばかり思っていた。しかし相手がその言葉を「待っている」かどうかも関与するという。考えたこともなかったが、いわれてみればその通りである。相手がその言葉を持っていれば通じる、待っていれば電光のように通じる、ということであろうか。

言おうと思っていたことを、その場にいた誰かが口にすることはままある。そこで「そうそう」などと言い合うのは会話の楽しみの一つである。しかし、自分が言おうと、ではなく、自分に言ってほしいと思っていたことを口にしてもらえる機会はめったにない。電光のような、つまり相手の心を震わせるようなものとなるとさらに限られる。買い物に行く人にアイスを頼もうとしたら、「アイス買ってこようか」と言ってくれた、などという話ではあるまい。

ずっと聞きたいと思っていた言葉をメールでもらって、身体中の細胞が色めきたつような気がしたことがある。細胞に電気刺激を与えるといろいろな現象が引き起こされるというから、まさに「言葉というものは電光のように」である。

若い頃、「わかる人にわかればいい」とうそぶいていた。言葉が通じない人とは深く関わらなくても結構、ということである。しかしこちらが関わりたくなくても、彼らは時として人生に踏み込んでくる。わかってもらえなくてもいい、と言えない相手が出てくる。どちらも知らなかったからこそ、そんなことが言えたのだ。

もう一つ、言葉が通じる相手はそれほど多くない、ということも。通じる人だけに囲まれて生涯を過ごすのはまず無理だ。そういう人と話す時間が自由に取れるなら良し、たまにでも電光のような言葉のやりとりができたら上々ではないか。
(2012.2)

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