理解してくれた人たちを思い出す
17歳でイタリアに渡り、日本という枠に収まらず活躍しておられるヤマザキマリさん。イタリア留学のきっかけは、14歳の時母が一人でヨーロッパに行かせたことだと知り、お母様とはいったいどんな方なのだろう、と思っていた。本書で描かれるのは、娘から見た母親の姿、それも全体のごく一部なのであろうが、それだけでも「この母にして」ではなく、母の方が一枚上手なのでは、という印象を受ける。
しかしその母リョウコは、娘の小学校一・二年の担任であったI先生が連絡帳に書いてくれた、「この社会で活き活きと生きること。たとえいつも一緒にいられなくても、一生懸命に働き、満足していること。それを知ってもらうことも、素晴らしい母親のあり方です」という言葉をずっと励みにしていたという。先生が亡くなった時にその話を聞いた、というところからも、リョウコにとってのその言葉の重みがうかがえる。
リョウコの子育ては、周りからすれば「自由奔放な子育て」(同書)だが、オーケストラ団員という職業柄やむを得ないところがある。そして二人の子供を育てるためにはオーケストラを辞めるわけにいかないのだ。何より、子供たちを本当に大切に思っていることが随所から伝わってくる。
自分の行動や嗜好を周囲にわかってもらえない時、それを理解してくれる人がいたらほっとするし、存在意義を認めてもらえたような気にさえなる。ましてリョウコのように、周りから非難されるような行動を何年も続けざるを得ない状態であれば、理解者の存在にどれだけ勇気づけられただろう。だからこそ、たとえ会えなくなっても、その人が理解してくれた、認めてくれた、ということは宝物のように残る。
長い人生、そういう人が身近にいて、いつでも連絡が取れる時ばかりではない。そんな時に辛いことがあって立ち上がる気力をなくしたら、静かに歴代の理解者を思い出してみると力がわいてくるのではないか。
逆に、たとえば職場でも家庭でも習い事の場でも、というように、どこにでも理解者、あるいは味方のような存在がいたら生きやすいだろう。なかなか望めない状況だが、そういう時期が数ヶ月、あるいは数年間だけ巡ってくる、ということならある。たとえ大きな喜びごとがなくても、多少嫌なことがあっても、そういう時こそ人生における「いい時期」なのかもしれない。 (2019.11→2024改)