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うれしすぎてそっけなくなる

あけみがうれしそうにもはずかしそうにも見えなかったのが気になっていたが、それは彼女にむしろ強いはにかみがあったからかもしれない。自分にもそういうところがあって、強い感情が動いたときはかえって無表情になってしまうと思った。
小山のときもそうだった。もう少し飲もうといわれてはいったところは料理屋ではなかった。

多田尋子「体温」

先日、とてもうれしいお誘いがあった。自分のそっけない返事にはっとして、もう少し何か言おうとしたものの結局何も言えず、「体温」の率子を思い出した。

「体温」は、夫を事故で失い、実家に戻って下宿屋をはじめた率子の物語である。家を下宿屋にするにあたっては、夫の同僚小山が骨折ってくれた。小山と次第に惹かれ合う中、下宿人のあけみが、近々結婚するということを淡々と告げる。そこまでそれほど感情移入できる主人公ではなかったが、「強い感情が動いたときはかえって無表情になってしまう」に、俄然親近感を抱いた。うれしすぎても悲しすぎても表情がこわばる感覚はよくわかる。身近にそういう人がいなかったので、あるいはいることに気づかなかったので、味方を得たような気がした。

もともと喜びを面に出さないのならよいが、普段はほどよく喜びを表せるのに、大きな喜びになると表せなくなる、というのは厄介である。チョコレートを持っていくと喜ぶので、奮発して高級チョコにすると喜ばなかった、としたら、戸惑うだろう。「え、高いの嫌いなん?」「いや、うれしすぎて固まった」などと言い合えるようならよいが、そうでなければ行き違いの種にもなる。

反対に、喜びすぎるとたがが外れてしまう、という人なら何人か知っている。彼らは喜びのあまり羽目を外し過ぎて、けがをしたり大事なものを置き忘れたりする。いずれにしろ、喜びのあまり誤作動する、というのが問題だ。

たがが外れる人たちは、すごくうれしいことがあったら忘れ物その他に気をつける、という。もちろんそれでも防ぎきれないらしい。無表情になるタイプは、こんな反応だけど(だからこそ)かなり喜んでいるんだ、ということに気づいてくれる人、喜びを掬い取ってくれる人が身近にいれば楽になる。率子が、うれしそうに見えないあけみの喜びに思いをはせたように、同じ側の人間であれば気づくのは簡単である。そうでない人には、「うれしすぎて何もいえなくなっちゃった」というようなことを繰り返し伝えて、自分の大喜びパターンを覚えてもらうしかない。

喜びの感情が強すぎる時に真反対の現象が起こるというのは不思議だが、閾値を超えると誤作動する、と考えれば納得がいく。小学生の時、いや中学生の時も、好きな子が現れると急に静かになる子と不自然に騒ぎ出す子がいたが、あれも同じようなものだろうか。(2021.8→2024改)


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