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「ヒトとケンチク、」
夏に岩手へ帰省したとき、
内藤廣さんらが設計した
「高田松原津波復興祈念公園」を観てきた。
いわゆる、“ 復興建築 ”
賛否両論あるし、
行ってみようと思えるまでにとても時間を要した。
タテヨコに真っ直ぐ引かれた線。
それによって分断される自然と人工的な空間。
幼少期の思い出が詰まったまちの変化が寂しくて
正直、うーん…って感じちゃう部分もあった。
でもやっぱり、
新しく創られた景色自体には美しさも感じる。
思い出があるからこそ、素直に美しいと思えない、思ってはいけないのでは、、?と感じる自分と、
意識して気持ちを抑えようとするくらい、
自然と、美しいなぁ〜って感じてしまう自分。
そんな複雑さを抱きながら歩いていたら、
3世代くらいの家族がとても楽しそうに集合写真を撮っていた。
そして私の母もウキウキしながら、
(( 綺麗だねぇ〜、素敵になったねぇ〜〜 ))
と、施設を楽しんでいた。笑
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あれ。建築ってそんな難しいことじゃない、?
1人でもいいなって感じる人がいるなら、
本当はそれでいいんじゃないかな。
とも、思えてきた体験だった。
万人に受け入れられる建築なんてない。
全てが正しい建築なんてない。
ヒトとケンチク、
なんか重なるなぁって感じた。
誰かにぶいぶい言われたとしても、
その人なりの“自分軸”がある。
様々な経験を積み重ねながら、
変に角ばった部分も徐々に馴染んできて。
でも、
やっぱりそこに“自分軸”はちゃんとある。
“真っ直ぐさ”って、
結構大事なんじゃないかなって。
大切なのは、
伝えたい人にちゃんと伝わる空間かどうか。
ある人から見たら「偏った愛」だとしても
お互いがきちんと通じ合ってるのならば、
それでいいんじゃないかなって。
もしかしたら、
そこに正しいとか正しくないとか、
本当はないのでは、、?
とは言えども、
これまで建築を学んできた身として
私なりの「Design Code(=美の基準)」はある。
( 僅かでもあるはず。 )
私はその基準の中で、
伝えたい人に伝わる建築がしたいんだ。
最も正しい建築、完璧な建築、
伝えたい相手がいない建築、
ではなくて。
そう気づいたような気がする。