#28 大根のお味噌汁といくらのおかゆ。
自分のことを整理整頓できている23歳。
24歳を迎える誕生日まで、
自分を振り返るために続けているnote。
一度、きちんと言葉にしてみよう。
母とのこと。
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中学2年生の冬。
学校終わり、家庭裁判所を訪れた。
暗くて、つめたくて、シーンとした建物。
当時、両親は離婚調停中だった。
私たちの親権をめぐって、結論がまとまらず、
兄と私は、それぞれ家庭裁判所へ行き、
【 家庭裁判所調査官 】に対して、
「父と母、どちらを選ぶか」
を、話さなければならなかった。
( 両親が私たちに選ばせることを望んでいたかは分からないが、調停をより円滑に進めるためには、私たちが調査官と面談をする必要があったのだと思う。 )
友だちにも話していないことを、
見ず知らずの人に話せるわけもなく、
その場で私は、
どちらかを選ぶことは出来なかった。
ただ、徐々に母と暮らす時間が減っていき、
結果として私は、
父との暮らしを選んだ。
甘くはない父との日々。
衝突して、どうしようもなくなって、
母の職場に駆け込むこともあった。
でも私は、
自分が選んだことを貫き通したくて、
貫き通さなければならないと思って、
母にひと通り話を聞いてもらった後は、
「じゃあ帰るね!」って言って
父の元へ帰った。
それでも母は、
いつでも私のことを受け入れてくれた。
大学進学を機に群馬に住み始めて
もう6年目になる。
地元以外に、故郷のような場所が出来た。
手を差し伸べてくれる人。
一緒に喜び、一緒に悲しんでくれる人。
切磋琢磨し合える仲間。
気を許すことができる大切な恋人。
かけがえのない存在が出来て、
群馬にも、わたしの居場所ができた。
自律した気持ちになっていた。
それと同時に私は、
母からの連絡を返さないときがあったり、
帰省しても顔も出さないときがあったり、
母のことを蔑ろにしてしまっていた。
自分なりに、いっぱい考えていることがあった。
家族がどこにいても、
自分さえみんなと上手くやっていれば、
それが私の家族なんだと。
家族の繋がりを守れるのは自分だけだと。
そう思い続けて、
でも上手くできないときがあって、
突然、糸がプツンと切れて、
私を大切にし続けてくれた母のことを、
私は蔑ろにしていた。
2024年。
この1年は、自分の今までのことをじっくりと整理整頓できる期間だった。
祖父との別れをきっかけに、
「 過去の可哀想な自分 」への執着を手放し、
気持ちに余白ができた。
迷いもなく進んできたが、1度立ちどまり、
胸に手を当てて自分のことをよく考えた。
そういう時間を過ごす中で、
やっぱり浮かんでくるのは、母のことだった。
思い返せば、
母がいちばん褒めてくれるのは、
私が、生徒会長として大きな舞台でスピーチをやりきれたときでも、
バレーで珍しく良いプレーができたときでも、
勉強で成果を出せたときでもなかった。
何をしても上手くいかなくて、
なりたい自分になりきれなくて、
ぽろぽろ泣き、悔しがってるとき、
「 もかはいつもじゅうぶん頑張ってるよ 」
「 1人でいつもよく考えてるよ 」
そう言ってくれた。
体調を崩したり、弱っているときに
いつも恋しくなるのは、
小さい頃に母がつくってくれた、
大根のお味噌汁といくらのおかゆ。
一緒に過ごす時間も、話す時間も
僅かなものだったけれど
会わなくても、話さなくても、
私のことをずっと思ってくれていた母の愛に
私は守られていたのだ。
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先日、人生で初めて、母とお酒を飲んだ。
小学校から一緒にバレーを頑張ってきた友達と、その家族も集まって、とても良い時間だった。
大切な人のことを、
ちゃんと大切にしていこう。
これからでも遅くないかな、
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お母さんといえばこれ。