小説ちひろ⑩
小説 ちひろ 第10話 幸せを手放すのが私の幸せ
春です。
陽気に誘われ虫も出てくりゃ、人も踊る。
ワッショイ、ワッショイ!
「ぷちブル」で働きだして数年が経ち、「夜の世界」で生きることにも慣れ、「ちひろ」の源氏名にもすっかりと馴染んだ私も一緒にワッショイ、ワッショイと春を楽しんでいた。
今の私は、幸せだ。
「え〜、春のテコ入れキャンペーンをやる!」と店長がチラシを出してくる。
そのチラシの見出し?キャッチフレーズ?は「花びらマン開!」「マン足させます!」
「ダッサ・・・。」
「言うな、俺もツラいんだ・・・。」
「え〜、最近入った新人3名も少しづつではあるが、成績が伸びている。ここでさらなる新規顧客を狙いたい!」
私が興味ない素振りをしていると
「1番成績が良かった奴には、臨時ボーナスを出すぞ。」
「ヨッシャー!」と私が目を輝かせていると
「固定客には辛い判定を下すからね。いつも通りじゃだめよ。」
「まっ、そんな所だ!頼むぜ、No.1!」
私は即答しなかったけど、すぐに「Vサイン」を出して事務所を出た。
ちひろが出てった扉から視線を外し、椅子に座りタバコに火をつける。
「あいつ・・・」
「ちひろさん、50分スチュワーデスでお願いします!」
「よっ!ちぃ~ちゃん!」
「わ~、来てくれたの~、うれしい!」
いつもより、丁寧にお客さんにサービスをする・・・。
濃厚な時間が過ぎ、お客さんを見送る際、
「桐生さん・・・」そっと目を閉じキスをせがむ。
私は、優しく抱きしめられながら、唇を重ねる。
「ありがとう。」
お客さんは、顔を真っ赤にして
「やだなもう!これが最後みたいな言い方するんじゃないよ!水くせーな!」
私は、去っていくお客さんの背中に手を振っている。
「ありがとうございました!」スケベな笑顔で迎えるボーイの顔を見るや否や、ゆるみ切った顔を戻そうと、咳ばらいをするお客さん。
でも、ボーイには客が満足したかどうかは、一目瞭然。
他の客を見るたびに、その思いは強くなった。
「くそぉ~、ちひろさん、どんなテクニックを使ってるんだよ!」
「くそ!俺が、同じ店の店員じゃなけりゃ!」と悔しさの余り握りこぶしと歯ぎしりをする。
ちひろは、来る客来る客に丁寧にサービスをし、そして丁寧に「ありがとう」とお礼を言う。
「みんな、ありがとう。本当にありがとう。」
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次の日、ワッショイ、ワッショイと浮かれている春の公園に来た。
私はひときわ大きな桜の木の下で、今までの思い出を楽しんでいた。
・・・困った
・・・幸せな時に限って思いつく困った悪戯。
幸せは抱きしめて死んでも離すべからず。
信頼してくれている人を裏切るべからず。
プロならお客さんを悲しませるべからず。
・・・そのとおり
舞い散る花びら、綺麗な夕焼け、幸せそうな人たち
私も、「幸せ」。
・・・でもね
ドキドキしちゃってるもん。
私は、胸いっぱいに春の空気を吸い込み、はぁ~と吐き出す。
辞めるわ・・・・ぷちブル
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誰も何も言わない事務所では電話の音だけが響く。
「ちょっ、辞めるって、どういう事っスか!」
「また、いつもの悪い冗談なんでしょ?」
「辞めるなんて、言わないでくださいよ!」
ボーイ達が、必死になって止める。
「店長!なんで何も言わないんですか!なんで黙ってるんㇲか!」
すると事務机に座り、壁に向かって何も言わなかった店長が振り向きもせず静かに話してくる。
「辞めんのか、風俗嬢。」
「いえ」
「店に不満か?」
「大満足、です。」
店長は、自らの肩を揉みながら、ゆっくりと立ち上がり「だろうな。」
「金と設備、それ以外でウチよりいい店は、ない。」
「はい。」
「俺よりもいい店長もいない。」
「はい。」
「絶対、後悔すっぞ。」
私は、過去の自分を思い出しながら、店長の目をまっすぐに見ながら覚悟を決めた。
「はい、OL辞めて「ぷちブル」に来た時もそう思ってました。」
でもね、今の私は「幸せ」なんです。
店長は私の目を真剣に見て見定めている・・・。
私も、店長に「正直な自分」を見せている・・・。
そして、店長は・・・
スパーンッ!
私の頭を張り飛ばし、
「てめぇなんかいらねーよ!とっとと消えろ!干されて死んじまえ」と笑い
私も同じく大笑い。
「女ってのは、そうポンポンすてるもんじゃなぇ、何にでもしがみついて離さねぇのが女の役目だー」
「生き急いでんのか?」
私は一言「壊れてるんㇲ。」と笑い、「そうか」と店長も笑った。
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春の公園、ワッショイワッショイ、春の陽気に虫も人たちも踊りだす。
そんな浮かれた人たちを受け入れている桜並木を私は歩きながら「生き急いでんのか?」店長の言葉を思い出す。
生き急ぐなんて、とんでもない。今の自分を味わってるだけ・・・。
桜舞い散る公園の空を見上げた。
春なのに空は高く、手を伸ばしても手が届かない。
私は人知れず、涙を流しながら、今年しか見れない桜並木を歩く。
「綺麗・・・。」
私は大切なものを失くす痛みで私の心は息を吹き返す。
「店長が商品の事で、涙を流すなんて初めて見たよ」とボーイが開店準備をしながらつぶやいた。
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