病気だと認めざるを得ない
実を言うと強迫性障害と思われるものを2年と少し前に発症した。そこから一進一退で、気になって仕方ない時期とそうでない時期を波のように繰り返してきた。私の中でこだわり項目が細かいものを合わせると何十個もある。全てを守るのは流石に体力的につらいし、自分でもおかしいという自覚がある。そういう時は根性で頭の声に従わないようにするのだ。そうするとそのことに関してのこだわりはじきに止むことが多い。しかし、気づけば他の項目のことで頭をいっぱいにして一日の多くを潰している。また止めようと努力する。止められてもまた別の芽が出る。これの繰り返しである。
1つ1つの項目で見ると昔よりマシになっているものもあって、それで「悪化してはいないよね」と自分をなだめたり、どうせ思い込みが激しいだけだと自分の観念を批判する。この苦しみに病名がついてほしいという気持ちもあるが、できれば普通の人でいたいと思い、闘いはしつつもある意味目を背けてきた。気分の落ち込みが激しいと人に泣きつくことは度々あった。でも、強迫性障害が辛いと口外したことはあまりない。
一番の理由は恥ずかしいからだ。筋が通った「どうしてこうなったのか」の説明ができない。noteなどの文章を書いていると、何かにつけて理由を書いていることに気づく。そうでもしないと話が繋がらないから。そんなnote大好き人間にとって説明のつかないことは苦痛でしかない。メンタルに関する日本語がもっと増えたらいいのにと思う。
自分でもおかしいと感じているし、気にしない努力も人一倍しているのに何年もおさまらないのは病気と認めざるを得ない。これでも行為は我慢している方だと思う。要は一番マシな形でこれなのだ。
最近は頭の中が四六時中そのことで埋まっていて、そのこだわりを理解してくれない家族に怒りすらわかない。全ては私が自室にこもっていたら解決なんだと思う。玄関の施錠も車に乗るのが怖いのも私のみが魔物に取り憑かれているだけなんだ。自分のこだわりに則った要求がどんどんエスカレートするから自分以外の人を巻き込んじゃダメと言われているが、果たしてエスカレートするのかを試さないと気が済まない。でも私の親は心配するどころか私の苦しみから逃げている。ただ私は観念に打ち勝つことに疲れて涙を流すことしかできない。疲れた。私の築こうとしているものはどんどんと飲まれようとしている。
不慮の事故で死ぬのが怖いからその前に死にたい。ただの鬱じゃなくて、強迫性障害に脳をフル稼働させられて疲れての鬱。そろそろちゃんと治さないと廃人になってしまう