上京して10年。育ちの悪さを自覚した。 家庭は特別貧乏ではなかったが、家ではいつも母が父の悪口を言っていた。当然子供達は母の味方をするようになり、父は孤独だった。 母親はほとんどいつも機嫌が悪かった。 家族でTVを観るときは必ず出演者の悪口大会だった。 部屋のインテリアにこだわる、食事の彩りに気を遣う概念はなかった。 小中と地元の公立校に進んだ。 飛び抜けて治安が悪いと言うことはないが、 中途半端なヤンキーがカースト上位の、中途半端な学校で過ごした。 カースト下位になるの
怠け者の私にどちらかというとコツコツ稼ぐおっパブは向いていなかった。 出勤時間が長かったこともあり、だりーなとおもって数ヶ月ほどで飛んだ。 性を売ることを覚えたが、この頃は無知ゆえに特別金に執着がなかったため、バリバリ稼いでやろうとはならなかった。 そのあと気分でヘルスなどで働いてみたが、こんなに客相手してるわりにもらえる額が少ないなと感じ、すぐに辞めた。 そこから2年ほどは特に活動せず、彼氏ができると同時にヤリマン活動もそこそこに落ち着いた。 東京で暮らすうちに、
ここで私は覚醒することとなる。 無事受験を乗り越え、市内で一番制服のカワイイ高校に入学した私は、 小学校高学年以来の、「かわいくなりたい!」という情熱を取り戻す。 入学時は、アイプチしたり眉毛を整えることにすごく抵抗があった。 なんとなく恥ずかしいという思いが捨てきれず、親や友達に茶化されないか、すごく不安だったからだ。 しかし、あたしだけ眉毛ボーボーじゃね?と気付いた高1の夏、初めて美容院で眉カットをしてもらった。 そこからコソコソ100円ショップなどで化粧品を
特筆することもなく、男子と話せないままだった。 卒業アルバムの写真がニキビだらけの眉毛ボーボー、顔パンパンの芋ブスで、今すぐに捨てたい!学年で一番ブス!!と家に帰って大泣き&大暴れした。 親は呆れていた。
小学校低学年のころから、私は尋常じゃなくモテたかった。 でも自信がなく男子と話せない。陰キャにはゴリゴリ自分から話しかけるのに、陽キャに話しかけられるとキョドりまくり。目も合わせられない。 ちゃおとか二コラとかサン宝石のカタログに書いてあるモテテクを、何度も何度も繰り返し読んだが自信がなく実践できなかった。 告白された人数=モテ であると認識していたが、結局6年間で告白された人数は0人に終わった。 うちの親はこどもが色気づいたのを感じると茶化す人だった。 人一倍興味
次に覚えているのが年中さん、4歳の頃の記憶である。 けんちゃんにゴリ押しアピールをしてから1年経った私は、恥という感情を知るほどには成長をしていた。 4歳の頃には別の男の子、通称しょうちゃんを好きになっていたが、なんのアプローチも出来ず、ただ、見ていた。 そのまま時がたち年長さんになった。 驚くべきことに、5歳児にしてクラス内ではきっちりカーストのようなものが形成されていた。 そしてカースト頂点に立つ女の子、かわいくて足が速くて大人っぽい、まみちゃんが私のライバルとな
私がはっきりと覚えている1番古い記憶は、3歳の頃のものだ。 性の目覚めが早すぎた私は、3歳にして好きな男の子がいた。 まだ何も知らない当時の私は、とにかくゴリ押しだった。 好き好きとけんちゃんを追い回しアプローチしまくり、家で書いてきたラブレターを渡すも拒まれ、しまいにはけんちゃんの保育園バッグに無断でラブレターをねじ込んだりした。 けんちゃんはちっとも振り向いてくれなかったけど。 怖いもの知らずだったあの頃、これが最初で最後だったと思う。