そもそも、私は恋人が欲しいのか
「そもそも本当にパートナーが欲しいの?」
これは私がよく恋愛観をこじらせた友人から相談を受けたときに返す言葉だが、直近で私も同じ言葉を投げかけられてしまった。
私は反射で「それはもちろん、欲しいよ」と回答したが、
あくまでそれは反射の回答で、本心だったかというと自信がない。
私が友人たちに上記の質問を投げかける理由は、
「ある一定の人間には恋人がいなければならない」や「恋人がいること=幸せ」という恋愛至上主義に翻弄された結果、パートナーをつくらねば、と自分を追い込んでいるのであればそう思わないでほしい、という想いからだが、無意識のうちに私も自分自身にそれを課してしまいがちである。
恋人がほしい、パートナーがほしい、
そう思う理由は人それぞれだが、近しいときもある。
私の場合は、
・あたたかい暮らしにあこがれを感じたとき
・疲れていて「無償の愛」のような何かを欲したとき
・恋人探しにつかれたとき
・カップル向けのイベントに憧れを感じたとき
・「恋人がいる」と言えることそのものにあこがれる/メリットを感じるとき
などが原因になりやすいのだが、ものの見事に恋愛至上主義や、世のマーケティングや恋人規範のあおりを受けているものだな、と今言語化してみて改めて思う。
すべては恋人がいれば解決するというわけでもない、というものは言語化するときわめてわかりやすい。
恋人ができたところで無償の愛もイベントの参加も確実に手に入る、とは言い難いからだ。
それでも私は定型文のように「恋人が欲しい」と吐いてしまう。
結局私は恋人、がどういうものなのかをよくわかっていないのだろうとも思う。これまでの人生のなかでサンプルが少なく、周囲にも自分があこがれるようなパートナーシップを結んでいる人間はあまり多くないにもかかわらずまれに素敵な恋人同士がキラキラと輝いて見えるから無意識にあこがれてしまうのだ。
これまで、素敵なカップルだなあ、素敵なパートナーシップだなあ、と思った人間は何人かいて、彼らはみな共通して「恋人を心から愛し、愛されていた」。
あるヘテロの人は、「毎日この人の顔を見たいから結婚した」と言っていて、その言葉を真顔で言えるその人自身を素敵だと思ったこともある。
恋人というラベルの他者を付属品ではなく、自信がこころから好きなものとして、語る人の表情が私はすきで、その表情ができるほど何かに心酔していることをある意味うらやましいと感じているのだと思う。
確かにそれにはあこがれるが、そう思えるほどの人間と巡り合うのはとってもむずかしいことだなと同時に私は思う。
はたして、心から「この人を愛している」といえる相手と今後の人生で出会えるだろうか?そう問われると自信がなく、しかしあこがれやさみしさや焦りから定期的に私は「恋人が欲しい」と吐いてしまう。
私の求める恋人像ははるかに存在可能性が低く、遭遇するにはかなり確立が低いものであるということも知っている。
だが、やはり可能であれば上記のようなパートナーシップを築くことにあこがれはあり、やはり、恋人はほしい。
その恋人が一朝一夕で手に入るものだとは思っていないし、何かを妥協してまで無理矢理手に入れたいとも思うものではないが、ほしい。
たぶんきっと、この衝動の根っこにあるのは恋愛至上主義、ロマンティックラブイデオロギーetc.のしがらみなのだろうけど、
私の場合はそれよりもっと単純に好奇心なのかもしれない。
経験したことないものを、してみたい。
恋愛市場をふらふらとさまよってみていくつかのしがらみから脱出し、自己認知に変化が起きていることから感じることは、割と「一度経験してみたらすっきりする」ことが多いということだ。
きっと今後も定期的に恋愛市場を覗きマッチングアプリに精を出すことをつづけていきながら波長が合う人間をゆるくゆるく探し続けるしかないのだろう。
そしてそのなかで、様々な経験をすることである種の執着が減少してくるかもしれないので、そちらに期待したい。
自分と、自分を取り巻く社会に潜む恋愛至上主義は本当にやっかいだが、
「私をさらに幸せにしてくれる他者」という恋人にいつかで和えたらいいなあと思うし、出会えた時には私もその人を全力で幸せにしたいなと思う。
が、一方で「私がパートナーシップに依存せずめちゃくちゃ幸せになる」道も同時に模索し、くれぐれも恋愛至上主義の再生産だけはしないようにしたい。
(このnoteをアップするにあたりいくつかのタグをつけたのだが、恋人欲しい、は2件 彼氏ほしい、彼女欲しい、は大量にあり、なるほど、とおもった。みんな恋に恋をしている世の中なのだと、改めて。)