自分の願いをスケールで判断しない
こんにちは、本田蒼風です。
今日は
「自分の願い」をスケールで判断しない
について書こうと思いますよ。
皆さん、今もしな~んにも制約がなかったとしたら、何したい?どうだったら嬉しい?(誰に聞かれるわけでもない想定で)
お金がどれくらいかかりそうとか
今の自分の実力では無理そう・・とか
時間的に厳しいな・・・とか
そういう制限が一切ないですよ~って言われたら、何を願います?
この質問されて、即答できる人って、
結構凄いな~って私は思っちゃうんですよね。
迷いなくスパンスパンって答えられる人。
私もね、最近実は自問してみたのです。
「制限が一切なかったら何望む?」って。
「望みか~。え~なんだろう…」
なんでか知らないけど、自分の中で何かに対して躊躇している感じがあったのよ。私は一体何に対して躊躇してるのか…。
息子の七夕短冊に書かれた願い
私には現在6歳の息子がおりましてね、親の私がいうのもなんですが、結構面白い子なんですよww
先日小学校入学して初めて「個人面談」なるものがありまして、ちょっと緊張しながら行ってまいりました。
そして教室に入って席に着いた一発目に先生が言ったことが・・・
「いや~●●君、発想が面白いんですよ。いつも僕らの発想の斜め45度くらいから答えが返ってくる感じがして、結構笑わせてもらってます」
とのこと。
あはは、やっぱりそうですよね。普段から自宅でもそうです。
学校でもそうあってくれてよかった。
普段通りに過ごせてるってことですね・・あはは・・・
と言って帰宅しました。
その息子が昨日学校から「七夕のために書いた短冊」を持って帰ってきました。
せかいのくるしみとぼくりょくをけしたいです。
(訳*世界の苦しみと暴力(間違えたらしい)を消したいです)
↑言葉を音だけで覚えているから、面白い言い間違いをするのが私のツボ。
そしてもう一枚が
ラーメソをたべたいです (訳:ラーメンを食べたいです)
↑ ンがソになりがちよね~ww
ラーメンを食べたいです・・ってちゃんと丁寧な言葉で書いているところにじわじわくる私。
世界規模の願いと個人の食欲に対する願いを同時並列にする
七夕の短冊みて叶える手伝いしてくれる織姫、彦星も大変でしょう。
↑
えっ、いや・・・ちょっと待ってよ?!願いを聞き届けてくれるのって誰想定なんだろう?・・短冊に願いを書く意味理解してないかも、私(-_-;)
ラーメンのほうの願いは、真夏日になり即「冷やし中華」を食べたことで叶ってしまいました。
自分でもできるかやってみた
スケール感の違う願い(望み)を同列に置く
これって実は結構すごいことなんじゃないかと思いました。
冒頭に書いた「制約が何もないとしたら何願う(望む)?」という自問に対して、なぜか躊躇してしまう自分がいた話。
な~んにも制約ないんだから、何だっていいんですよね。
息子の短冊みたいに世界規模の願いだろうが、超個人的なものだろうが。
なのに「何望む?」って言われたら、とっさにどこかで「自分の今の延長線上で叶えられそうなこと」みたいなのを必死で探そうとしている自分がいるのです。
達成のためのイメージが「何となくでも、今の私にできそうなこと」
いやいや、制限考えなくていいって言ってるのに。
自分でふとやってみて思ったのですが、純粋に「望む」「願う」って私にとっては結構難しいことだと気づいたのでした。
でね、それに気づいたので、
今回はちょっと実験もかねて自分のその「躊躇」に負けずに、ひたすら「願う」「望む」にフォーカスして躊躇する心を観察してみようと考えました。
望みか・・・(なんか怖いな。)
どこら辺くらいまでなら躊躇なく望めるかな?
「チョコのアイス食べたい」
これなら即望めるんですよ。
「心地いい風を浴びながらぼーっとしたい」
これくらいまでも躊躇なくいけます。
「最近めっきり増えてドスコイ気味の体重がすとんと5キロくらい落とし、かっこよく服を着こなしたい」
ここあたりからうっすら「いや、でも毎度そういいながら食生活も全然改善してないじゃん、自分」って言葉が同時に浮かぶようになってきます。
普段ならここで「だよね…えへへ」とか言いながら、別の作業とかして気持ちを切り替えちゃっうかな。
でも今回はその声はとりあえず無視。
そして(勇気を出して)どんどんスケール感を自分から外側の世界まで広げて考えていってみます。
ここの段階にくると、ちょっと呼吸を整える必要あるんじゃん?くらいちょっと呼吸浅くなっている感じです。(緊張してるんでしょうね、自分)
も~どんだけ頭の中に邪魔入るねん!ってくらい、
望むのと同時に生まれてくる「いや・・・でも」の声。
スケール感が大きくなるほどジャンジャン出てくる感じ。
でも負けない、今回は、私「いや、でも」の声に負けない!(笑)
(↑なんの宣言?)
そのうち、自分の妄想力にピントが合ってくる感覚が身体に広がっていきました。
で、最終的に望みを広げていって出てきたイメージは・・・
私の地元・北海道の大好きな景色のある場所(もう実は数年前から具体的にここら辺りって場所も見つけてる☺)にMOJIKARA研究所を創って、心の成長をみんなで楽しめるようなところにしてみたいな。
農作業とかもしながらさ。
その施設の大きさとデザインはこんな感じで、ショップとかレストランとかもあったりして・・・ぐふふ
あっ、私の作品を元にして作った彫刻作品が広い大地にドドーンって何体かあって、子供たちはそこに登ったりして遊べるのとか最高だな~。
冬は雪の真っ白な中に文字の彫刻だけがぽつんと浮かび上がる感じね、いいね、いいね!
(↑これは、ニキ・ド・サンファルという作家がイタリアトスカーナに創ったタロットガーデンという壮大な彫刻庭園。私はまだ訪れられてないけれど、私の望みのイメージにインスピレーションを与えてくれている場所)
できた~、望めたよ、私!いえーい!
ふ~。結構時間かかったな。
でも一通り望み終わった後の達成感に近い感じ。
そして楽しかった~と余韻に浸る時間もいい感じ。
それにしても、なんなん?
この「望む」ことに勇気出すっていう心理。
現状を変えたいけど変えたくない逆説的心理
この「自分が望んで今とは違う状況に身を置いてみたい」という心理と、それにジャンジャン横やりを入れてくる声の正体は
ホメオスタシス(生体恒常性)
っていうやつらしいですね。
生命活動を安全に維持するために、自分の現状をある程度一定に保つことが必要だと全身が判断して、変化をすることを避けようとする作用のこと。負のフィードバックともいうらしいです。
望みのスケール感が大きくなればなるほど横やり的心の声が大きく&多く感じられたのは、まさに「そんなに変化しちゃったら生命活動的には危ないかも」という反応から「ストップ、ストップー!」という信号を受け取っていたという話なんですね。
まあ、ある意味正常な心理だということです。
でもさ、身体の反応はそう出るとしても、
別に「望む」くらいいいじゃない!?って思いました。
でも身体は怖がったんですよね。
だから「そうか、そうか。大丈夫だよ~。これ今段階では、ただの妄想だからね。急激に変化して命危険にさらされないから、大丈夫だよ~」って自分で自分の身体に声かけてあげました(^^)/
自分の望みをスケール感で判断しない
今回、息子の七夕短冊から「自分の望み」を色々体感してみていた訳ですが、子どもの凄さを改めて実感。
躊躇なく、スケール感に関係なく「望む」ことができるチカラの持ち主
ってことです。
いつからなんでしょうね。
「いや、でも」とか同時に考えるようになるのって。
でも生存するのに必要だと思って身体が反応してくれているって考えたら、なんかちょっと自分の中で展開される横やり的言葉たちも愛おしく思えてきますね。きゃわいい★ww
たださ、望むのは制限なく望んだっていいんですよ。
それが自分の超個人的なことであろうが、身近なことであろうが世界規模であろうが・・・。
これは私にはスケール感大きすぎるから・・・なんて躊躇する必要なし!
妄想ゼロ円。(笑)
妄想は最高のエンタメ。
よく巷で聞かれる「引き寄せの法則」って、まさにこの「望む」ってことが大切だよって言ってるんですよね。
脳はイメージされたことをきっかけに、必要な情報を探してくるって機能に長けてるから、まずは妄想でスイッチ入れないことには必要な情報にもなかなか出会えなくなっちゃうよって話ですもんね。
だから私たち大人も、みんなで子どもたちみたいにジャンジャン望めばいいんだと思います。
で、私が今回もう一つ気づいたのは、
子どもに対してもだけど、大人同士でも、誰かが妄想したり望んだことに対して、とりあえず身体の機能的に「いや、でも」は発生しちゃうんだから、そこに加えて本人以外の誰かが「いや、でも・・・」を言い加える必要って本当に無いよな~って思いました。
もう誰にでもストッパー機能は備わってるんで、2重にはいらないです。
そうなんだ~。いいね。
面白そうだね~。
で十分なんですよね。
息子の短冊から、色々と面白い気付きをもらえました。
そして息子がこのままスケール感とか気にせず「願い」と「望み」ができるようにいてくれたらな~と思った出来事でした。
皆さん、望んだり願ったりするの得意?
今日も素敵な一日になりますよーに★
したっけね☺!
サポートをしてくださろうとご検討中の貴方はもはや「神」。