明の武宗
日本には生き物を大切にしようと江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が出した生類憐みの令があるが、中国にも似た例がある。その目的は少し違うけれども。今日は明武宗を選んで、この遊びに夢中になった皇帝がいかに不条理な行いをしていたかを紹介しよう。
1519年、27歳の明の武宗は、南方の寧王の反乱という問題に直面することになった。理屈では、天皇は勅令を出し、部下に命じて騒ぎを鎮めればよいのであるが、皇帝は自分で軍を率いたいと考えた。表向きは寧王を鎮圧しに行くということだが、実はこの機会に江南を訪れたい一心だったのだ。
明の武宗は、宮中を離れて遠出することが習慣になっていた。1517年には早くも北京を抜け出して農民の家で一夜を過ごそうとしたり、金持ちの家に忍び込んで後宮を埋める女性を奪ったり、1518年には多くの時間を共にした晋の楽師の妻、劉美人を奪ったりしている。これらのことが我々に教えているのは、その出征の目的が寧王を鎮圧することではなかったかもしれないということである。
証拠のもう一つは、さらに明白だ。明の武宗の出発後の次の日には寧王が捕らえられた報告を受けていいて、常識では、京に帰るべきであるところが、まだ江南に行くことを決定したことである。1520年、皇帝は南京に到着し、その後8カ月間滞在し、腐るほど楽しい時間を過ごした。
武宗は南征の際、侍従に熱燗のかめと柄杓を持たせ、どこでも酒を飲めるようにした。酒は比較的無害な娯楽だが、それ以上に恐ろしいのは、彼の馬鹿げた残酷な命令である。
南京に到着した武宗は、豚の飼育と屠殺を禁止する非常に奇妙な勅令を出した。表向きは、武宗は豚を穢れた、病気の元凶と考えていたからだが、「豚を殺す」ことと「朱(皇帝の姓)を殺す」ことは同じ意味なので、この勅令を出したと言われている。
この動きは、間違いなく迷信の表れだった。江南地方では、肉といえば豚肉で、誰もが豚を育てていた。豚肉は皇帝の生贄のほとんどに供され、ほとんどの肉料理の主材料であり、それを皇帝が一文で禁止するのはまったくもって住民の迷惑に他ならなかった。
また、後宮を作るために民衆から女性を強制的に連行するという残酷な勅令もあった。これは1517年以来の武宗の習慣であり、劉美人はその典型だった。この南征の際にも、それを大規模に行ったのだ。女性を掠奪する目的は2つあった。まず、事実上、後宮に入れることがある。第二に、もし彼女らが後宮に入れられることを望まなければ、親族は全財産を使って彼女らを買戻し、皇帝はより多くの遊びのための資本を手に入れることができるのだ。
史料によると、1520年、掠奪された女性たちの居場所がなく、餓死する者まで出たと、多くの宮廷の官吏から苦情が出たという。
武宗の南征は、酒に酔って川に落ちるという事故で終わった。この事故で明武宗は重病を患い、京に戻らざるを得なくなり、結局31歳の若さでこの世を去ってしまった。明の武宗の物語は、まるで糜爛した悪習は必ず我が身を滅ぼすと教えてくれているようだ。
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