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いきのこり●ぼくらを聞いて口ずさむ

音楽を聴くときに、どんなことを重視するかは人によって違うと思う。もちろん、曲の雰囲気とメロディの好みもあるけれど、私は歌詞を重視している。

どういうストーリーがあるのか、どこで韻を踏むのか、どんな表現で、どんな風景がそこにあるのか。

以前は、表現方法として歌詞に注目していた。しかし、最近は共感という部分で歌詞を見ることが多くなった。そこにある種の救いや希望を見出しているのかもしれない。

特に青葉市子さんの『いきのこり●ぼくら』という曲の歌詞を何度も聞き返している。

雨雲の灯りで瞳をつないで
ようやく辿り着いた ここは大きな日本家屋
長いトンネルを抜けるまで 怖かったよね

ほっとして 座り込んだ
ひどく汚れた 足の裏
怪我してるのか 少し痛いけど
どれが僕の血なのか わからないね

大きな山の頂で 貴重な生命
身を寄せ合って あたたかな 温度を抱きしめながら
大きな山の麓には 死者の国
僕らを見上げては 光の玉届けて

ボストンバッグには 3日分の服とあの子の写真
今頃どこかで 泣いてるかもね それとも 笑ってるかもね

新しい亡骸を 峡谷へ落とす
鳥たちがすかさず啄んで 空高く 運んでく

毎日の風景 ずっとつづくね
慣れなきゃ、
いきのこり ぼくら、


この曲は、どこか非現実的な雰囲気がある。

避難、あるいは逃亡してきた少年。足の裏についた血を見て、どれがぼくの血かわからない。と言う。

自分も血を流し、人の血もついていることから過酷な状況が感じ取れる。

山の頂で感じる貴重な生命。暖かな温度を、生きている温度を確かめ合うように抱き合う。

その一方で、この歌詞には幾度となく死について触れている。

山の麓にある、死者の国。

光の玉を届ける光景は、何だか雲の切間から光が漏れる薄明光線を連想させる。




この曲では、死者が集うのは「山の麓」と表現したり、「新しい亡骸を峡谷に落とす」と表現する。

しかし、「光の玉を届ける」や「鳥たちが空高く運んでいく」と言う表現から、死後に肉体は下へ。

魂の部分は上へと向かっているように感じる。

そして、ノスタルジーとセンチメンタルを感じさせるこの曲で、私が一番好きなフレーズは最後にある。

「毎日の風景、ずっと続くね。慣れなきゃ、慣れなきゃ。生き残りぼくら」


私の持つ世界とは、何も共通しているところはないはずなのに、必死に今の状況に慣れようとする姿に共感した。

辛い辛いと感じつつも、「慣れないと」と言い聞かせる。

生かされている私たちは、この変わらない世界に順応しなければいけない。

私はこの曲を聴くたびに「慣れなきゃ、慣れなきゃ」と口ずさまずにはいられない。

生きているのか、生かされているのか分からないこの世界に向けて、塗りつけるように口ずさむ。

そういう曲が他の人にもあるのだろうか。


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