いきのこり●ぼくらを聞いて口ずさむ
音楽を聴くときに、どんなことを重視するかは人によって違うと思う。もちろん、曲の雰囲気とメロディの好みもあるけれど、私は歌詞を重視している。
どういうストーリーがあるのか、どこで韻を踏むのか、どんな表現で、どんな風景がそこにあるのか。
以前は、表現方法として歌詞に注目していた。しかし、最近は共感という部分で歌詞を見ることが多くなった。そこにある種の救いや希望を見出しているのかもしれない。
特に青葉市子さんの『いきのこり●ぼくら』という曲の歌詞を何度も聞き返している。
この曲は、どこか非現実的な雰囲気がある。
避難、あるいは逃亡してきた少年。足の裏についた血を見て、どれがぼくの血かわからない。と言う。
自分も血を流し、人の血もついていることから過酷な状況が感じ取れる。
山の頂で感じる貴重な生命。暖かな温度を、生きている温度を確かめ合うように抱き合う。
その一方で、この歌詞には幾度となく死について触れている。
山の麓にある、死者の国。
光の玉を届ける光景は、何だか雲の切間から光が漏れる薄明光線を連想させる。
この曲では、死者が集うのは「山の麓」と表現したり、「新しい亡骸を峡谷に落とす」と表現する。
しかし、「光の玉を届ける」や「鳥たちが空高く運んでいく」と言う表現から、死後に肉体は下へ。
魂の部分は上へと向かっているように感じる。
そして、ノスタルジーとセンチメンタルを感じさせるこの曲で、私が一番好きなフレーズは最後にある。
私の持つ世界とは、何も共通しているところはないはずなのに、必死に今の状況に慣れようとする姿に共感した。
辛い辛いと感じつつも、「慣れないと」と言い聞かせる。
生かされている私たちは、この変わらない世界に順応しなければいけない。
私はこの曲を聴くたびに「慣れなきゃ、慣れなきゃ」と口ずさまずにはいられない。
生きているのか、生かされているのか分からないこの世界に向けて、塗りつけるように口ずさむ。
そういう曲が他の人にもあるのだろうか。
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