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ムテキングとスパイダーマン 『カナガワの鱒釣り』14


 80年代うまれの友人について。朝、僕たちが眼を覚ますころ、父や兄たちはもう出かけていた。母は安らいでいて、コーヒーを飲んでいた。僕はどんぶりで朝ごはんを食べる。

 卵かけご飯、キムチ。

 「お母さん、テレビの時計。ハチ、イチ、ニー」

 「じゃあもう出る時間ね。バス来ちゃうから支度しなさい」

 幼稚園バスは8時25分に僕たちを迎えに来た。

 夢想はすでに頭の中にたくさんあった。僕たちはバスに乗って出発した。バスはいつもどこを走っていたのか、陽の差し込む森の道や狭い路地を通り抜けると、幼稚園に着いていた。僕たちは園庭に向かって走りだした。

 園庭には陸に上がったボートが一艇あり、船室の中は本当の冒険みたいだった。

 「れいくん、きのうムテキングみた?」とひろちゃんが言った。

 「みたけど、きのうじゃないよ。きょうでしょ。さっきだよ」と僕。

 「そっか、じゃあきょうムテキングみた?」

 僕たちの幼稚園は大きくて、敷地面積はビッグエッグの5.5分の1個分もあった。たくさん昆虫もいた。バスからおりて、園舎までは500メートルほど、土や落ち葉を踏んで歩いた。僕は遊びの準備をはじめる。ひろちゃんは僕のとなりにあってもクロダコブラザーズと戦っているままで「や、ら、れ、たあ」と、一人で何役にもなっていた。

 僕は「スパイダーマンやるよ」と言った。

 ひろちゃんは僕の顔をみて、目を少し細めて言った。「れいくん、またおれにアスレチックさせてさ、こわいことやらせる気でしょ」

 「ちがうよ」と、僕はロープが網状に張られた遊具にのぼりながら言った。

 「おれが、おれ、おれはうんどーしんけー悪いからスパイダーマンやんの好きじゃない」

 「修行しなくちゃ」

 「れいくん、やるなら、しょーがないけど」

 「だいじょうぶだよ」

 高さ1820ミリほどに張られたロープ網にぶら下がって、僕は両足を宙に舞わせた。両手の指でしっかりとロープをにぎり、そこを支点に右へ左へと、身体をひねった。両手と両足の運動が見ている人に臨場感を伝えて、冒険を演出する。そしてその姿勢のまま、僕は唄うのだ。

 「すぱいだみーすぱいだみーすぱいだみーんすぱいだみん♪」

 摩天楼を縫うように飛べ! 急げ!!

 「はい、じゃあ次はひろちゃんね」

 僕は安心な地上から見上げていた。ニューヨーク金融街のホテル23階、窓枠に足をかけた男が何かを叫んでいる! 急げ! スパイダーマン! 命があぶない!

 「できないよ。おれやっぱ」とひろちゃんは言った。「スパイダーマンむり」

 ビルの屋上から街を見下ろす、その姿勢のまま固まってしまったヒーローはいじらしく、弟のいない僕の神経を愛撫していた。自分より弱いものに対する優越感のめばえだった。

 「はやく、できるよ! はやく、もう時間ないよ」と僕が言う。

 「いやだよ。できない!」とひろちゃん。

 「大丈夫、ひろちゃんはできるよ! 修行だよ! とべ! 」と僕が言う。

 「いやだ!」とひろちゃん。

 「わかった、じゃあもうぜっこーだね」これも僕が言った。

 ひろちゃんは少し黙ったあと、ゆっくりとロープ網の穴から両足を宙に差し出し、意を決して身体を宙へと投げ出した。ひろちゃんの両手にひろちゃんの体重がぐっとかかる。

 「やった! ひろちゃんできた! はい、うたって! うたって! うたわないとダメ!」

 「すぱいだ、みー、すぱい、だみー、すぱいだみーん、すぱいだ、わっ」
どさっと重たい音がした。

 不意に鳴らされた非常ベルのように、ひろちゃんは震えながら泣いた。顔が赤くなるほど、口をおおきくあけて、呼吸がきれぎれになりながら泣いた。

 僕は駆けよって、ひろちゃんを抱きしめた。力強く抱くことで愛情と友情を同時に伝えようと、するとひろちゃんは泣きながら、僕の胸をげんこつでどんどんと叩き、果ては僕にしがみついた。まるで弟のようなひろちゃんは僕の親友だった。

 「ごめんね。ひろちゃん。おれがわるいね。ごめん」と僕は言った。

 「うん。帰ったらお母さんにいいつけるからね」とひろちゃんが言った。









読んでくれてありがとう。明日も元気で!
多分僕もまた来ます。


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