ドストエフスキと小林秀雄、才能と狂気
小林秀雄の『ドストエフスキの生活』の抜粋から、始まります。
『小説の登場人物を指して 、この人物はよく描かれているとかいないとか言われるが 、そういう極く普通な意味で 、ドミトリイは実によく描かれた人物である 、恐らく彼ほど生き生きと真実な人間の姿は 、ドストエフスキイの作品には 、これまで現れた事はなかったと言ってもいいだろう 。読者は彼の言行を読むというより 、彼と附合い 、彼を信ずる 。彼の犯行は疑いなさそうだが 、やはり彼の無罪が何んとなく信じられる 、読者はそういう気持ちにさせられる 。この作の冒頭で 、フョオドルの性格を素描し 、作者は 、こんな事を言っている 、 「多くの場合 、人間というものは (悪人でさえも )吾々が批評を下すより 、ずっと無邪気で単純な心を持っている 。吾々自身だってそうである 」と 。こういう言葉を 、何んの気なしに読んではなるまい 。こういう言葉には 、作者の永年の人生観察の辛い思い出が 、一杯詰っている 。他人を眺め 、自らを省み 、彼の天賦の観察力の赴くところ 、到る処に人生の驚くべき複雑なメカニスムが露出したのであるが 、彼は 、結局そういうものに誑かされはしなかったのである 。彼の天賦の分析力は凡そ徹底したもので 、恐らく殆ど彼自身の意に反し 、触れるものを悉く解体し尽す体のものであったに相違なく 、彼の言う人間の単純さ無邪気さという様なものは 、そういう荒涼とした景色のうちから 、突如として浮び上った鮮やかな花の様なものであったと想像される 。僕は 、少しも比喩を弄する積りはない 。一見奇妙な事も実は極く普通の事だ 。彼の観察力は 、彼自身が持て余すほど鋭敏なものであり 、自由に馳駆している積りでいたら 、何をされるか解らぬ様な化け物であった 。そういうところに 、己れの才を頼む才能ある観察家と己れの才と戦わざるを得ない真に天才ある観察家との相違がある 。本当に才能のある人は 、才能を持つ事の辛さをよく知っている 。その辛さが彼を救う 。併し 、そういう人は極めて稀れだ 。才能の不足で失敗するより 、寧ろ才能の故に失敗する 、大概の人はせいぜいそんな処をうろうろしているに過ぎない 。』
共産主義のテロリストの爆破計画に加担して捕まり、死刑執行の一歩手前、銃を突きつけられたり(突きつけられたところで恩赦がくたり、シベリア流刑に減刑された)、泣きつく・恫喝する・嘘つく、等々、あらゆる手段を講じて、お金をむしりとっては、ギャンブルに勤しんだり、妻を捨て女とランデブーしたり。小林秀雄の言葉を借りると、まさに、ドストエフスキの生活は、「彼の観察力は 、彼自身が持て余すほど鋭敏なものであり 、自由に馳駆している積りでいたら 、何をされるか解らぬ様な化け物であった 。」である。
ドストエフスキ作の「罪と罰」の中で、金貸しの婆さんを殺害した、主人公・ラスコーリニコフの「人を殺してみたい」は、ドストエフスキの感覚と相通じる、馳駆の果て、化け物の獣道である。
その化け物は、タブーという呪符、関所で閉ざされた奥に巣窟している。呪符の効能を、感知できない、月並みの観察者は、化け物を、悪魔・気狂いと忌諱し、排斥する。
蜘蛛が巣をはれるように、我々にも、先天的忌諱、タブーがある。蜘蛛と違い、我々には、後天的タブーもある。生まれ育った環境で刷り込まれてきた、インプリンティングされてきた、ストーリーによる、タブーである。言語の習得と同様に、脳が未成熟な時期ほど、深く広く、根付いていく。情動の源泉が、幼稚な程、説明不可避な程、忌諱性が強いのは、その為である。その理路が美しく整い過ぎてる程、情動に衒いがあるのも、贋物の香りがするのも、その為である。
内田樹さんが、昨今を憂い、「株式会社化する社会」と、揶揄している。そこには、血肉のかよった、生臭いく、矛盾に満ち溢れた、生身の情理は度外視され、理路整然とした、単純明快な論理が、綺麗に陳列されている。日本酒で例えるなら「獺祭」である。整形美人のような、不自然に整いすぎた味。人性が閑却された帰結として、深みがなく、底が浅い。
たしか、三島由紀夫が、初めて渡米したのも、尾崎豊が初めて渡米したのも、20代半ばである。三島由紀夫と、そこで薬に手を付けた尾崎豊を並列するのは気がひけるが、『本当に才能のある人は 、才能を持つ事の辛さをよく知っている 。』という観点では、二人は同類と言っていいかもしれない。
「百聞は一見にしかず」の敷衍の先には、「百見は、一体験にしかず」がある。日本人として生まれ育った二人の渡米の一体験は、不可逆的な影響を及ぼしたことだろう。「人殺し」は、先天的タブーにも、後天的タブーにも、最大級に、不可逆的な影響を及ぼす、玉手箱的?パンドラの箱的?、割符箱になり得る。
月並みな観察者と違い、タブーという関所の割符を持ち?、もとい、そもそも、関所が機能していない、ような有様で、化け物の巣窟に入り、化け物と同化しつつ、その生態を鳥瞰し観察するのが、本当に才能のある、観察者である。
正義も、善悪もない、徳を積もうが、仁義を尽くそうが、人を騙そうが、人を殺そうが、全人間の底流に流れている、
ドストエフスキのいう、「人間の単純さ無邪気さという様なもの」があり、
小林秀雄のいう、「荒涼とした景色のうちから 、突如として浮び上った鮮やかな花」があると、
私なりに、薄っすらと直覚はできる。生身の血肉が通った人間という動物が、人間らしく生きている。関所なき獣道を馳駆した果ての、境地なのだろう。
「才能を持つ事の辛さをよく知っている 。その辛さが彼を救う 。」
「才能の不足で失敗するより 、寧ろ才能の故に失敗する 」
「脳はみんな病んでいる」の著書に描かれている「ワシ人間」(天才でも減点方式だと発達障害に分類され、迫害もたびたび受けるマイノリティグループ)に通じる、一つの真理なのかも知れない。
内田樹さんは、「街角の文体論」の著書で、文章が上手い三傑として、三島由紀夫を挙げている。確か三島由紀夫の「太陽と鉄」の著書だと記憶しているが、日本人にはそもそも評論は向かないが、日本人らしく、評論を大成させたのは小林秀雄だけだ、みたいな事が書れていた。
うーん、、なんか、分かる、なんでこんな文章かけるんだ??、
ふとしたときに、触れ合いたくなる、小林秀雄、でした。