『わたしは、ダニエル・ブレイク』から伝わる真っ直ぐな怒り
ケン・ローチ監督の第69回カンヌ国際映画祭・パルムドール受賞作。絶対面白いだろうと思いつつそのままにしていたのを、アマプラで見つけた。
やっぱりもっと早く観れば良かった。ここ数年に観た中で、一番いいと思う映画だった。原題は『I, Daniel Blake』。2016年の作品だ。
引退を表明していた、イギリスを代表する巨匠ケン・ローチ監督。しかし、現在のイギリス、そして世界中で拡大しつつある格差や貧困にあえぐ人々を目の当たりにし、今どうしても伝えたい物語として引退を撤回してまで制作されたのが本作『わたしは、ダニエル・ブレイク』である。
連続するどのシーンも、まったく無駄がなく、完璧に感じる。遠回しや、分かりにくさ、露悪的なところもない。監督のメッセージがストレートに伝わってくるが、重苦しさよりも、丁寧で温かみを感じる。
主人公は、イギリスで大工として働いていたダニエル・ブレイク。彼は、心臓病のために医者からしばらく仕事を休むように言われている。その間の生活費として国からの公的援助を受けようとしたが、複雑な制度や仕組みに振り回され、なかなか援助を受けることができない。
そんな時、ダニエルは役所でシングルマザーのケイティと子どもたちに出会い、お互い助け合って生活をするようになる。しかし、理不尽な現実の中で、経済的にも精神的にも追い詰められていく。
観ていると、今の私が、ダニエルやケイティとどれだけ違うのか分からなくなる。いつ自分が彼らに置き換わっても違和感がない身近さで、不安にもなる。追い詰められていく彼らに、特段の落ち度があるようには思えない。自分から荒んだ生活に向かってるわけでもなく、向上心を持ち、健康的な生活を望んでいる普通の市民だ。
これと言う劇的な事件は起こらない。ただ、小さな問題の積み重ねで、じりじりと出口が閉ざされていくようだ。Web申請に手間取るダニエルを見ると、少し時代が違えばまったく違う結果になったことも予想ができる。ダニエルたちは、たまたま今の制度や仕組みに適合しづらくて苦しんでいる。それは、本当に彼らが個人で負う必要がある苦労なのか。
最近ニュースでよく見かける社会問題と重なるところが多く、ドキュメンタリーを観ているようだった。
ただ、ダニエルが、構造的な理不尽に対して真摯に怒りを表現することにはハッとさせられた。イギリス人と日本人の違いなのか個人差なのかよく分からないが、今、理不尽な制度や仕組みに直面しても、私はそれに反発することは大人げないという感覚が先に出る。周囲にもそう思われたくない。何事も、クレームと受け取られるのも嫌だし、黙って従う方が効率的だと適当に割り切ってしまう。
でも、それは本当にいいことなんだろうか。「大人の対応」の積み重ねが、いつかいろんな出口のなさに繋がっていくんじゃないだろうか。
名前の"ダニエル"にはどんな意味があるのか、気になって調べてみた。1つは「神は私の裁判官」という意味。2つ目は「キリスト教においては預言者」らしい。実際にはこの2つがイギリスでどの程度連想されるものかはよく分からないけど、あまりにピッタリでちょっと驚いた。