【短編】 シンフォニーおじいさん
町の片隅にある、メタセコイヤがそびえ立つ大きな公園に、ひとりの老紳士がやってきた。
歳のころは80歳を過ぎているだろうか。
薄い白髪に丸いメガネ、そして古びた背広を着て、背中を少し丸めたその姿は、一見するとどこにでもいそうな普通のおじいさんだ。
しかし、このおじいさんにはある特別な特徴があった。それは、彼が毎日、公園で“シンフォニー”を演奏するということだ。
もっとも、この演奏は楽器を使うものではない。
おじいさんはいつもメタセコイヤの真下にあるベンチに腰かけて、両手を軽く広げ、何も持たずに指を動かす。
そして、音楽が奏でられるのだ――少なくとも彼の頭の中では。
「おはよう、シンフォニーおじいさん!」
毎朝おじいさんを見かける近所の子供たちは、そんなニックネームで彼を呼ぶ。
だが、彼は笑ってこう返すだけだ。「おや、今日はベートーヴェンだよ。田園、知ってるかい?」
子供たちは「すごい!」と拍手を送りながらも、何がすごいのかは分からずにいる。
ただ、このおじいさんが楽しそうにしているのが彼らにも伝わっていた。
ある日、町に音楽好きな若者たちの集団がやってきた。
彼らは「シンフォニーおじいさん」の噂を聞きつけて、興味津々で彼を観察しに来たのだ。
おじいさんが公園のベンチに座り、いつものように空中で指を動かし始めると、若者たちはくすくす笑った。
「見て、誰もいないにのに指揮してる!」「本物の音楽家なら楽器を使うもんだろう?」と、からかいの声が上がる。
おじいさんは一瞬動きを止めたが、すぐに微笑んで言った。「音楽は耳で聴くだけじゃない。心で感じるものだよ。」
若者たちはその言葉に首をかしげながらも、少し興味を持った様子だった。「じゃあ、僕たちにもその音楽を感じさせてくれるの?」
グループの中の一人、栗山雅人がおじいさんに聞いた。
おじいさんはうなずき、再び両手を広げた。そして、目を閉じてゆっくりと指を動かし始めた。
その瞬間、まるで空気が震えるかのように、公園全体が静まり返った。
若者たちは息を呑んで、おじいさんの指の動きに引き込まれた。
その指先が空を切るたびに、若者たちにまるで壮大なオーケストラが響き渡るかのような錯覚が起こった。
木々が風に揺れ、鳥たちのさえずりがリズムを刻み、遠くから聞こえる車のクラクションまでもが、この「シンフォニー」の一部のように感じられる。
雅人は思わず言った。「な、なんだ、これ…本当に音楽が聴こえる…」
他の若者たちも不思議そうに周りを見渡したが、明らかに何も音が鳴っていない。
それでも、彼らの心の中では何かが奏でられているのだ。
おじいさんは目を開け、静かに微笑んだ。
「音楽は、この世界そのものだ。すべてがシンフォニーなんだよ。」
その言葉に、雅人たちは言葉を失った。
翌週から、公園には若者たちも通うようになった。彼らは音楽家になるための学校に通っているが、「シンフォニーおじいさん」からも、もっと学べることがあるんじゃないか。そう思うようになっていた。
ある日、いつものようにおじいさんがベンチで指揮を始めると、突然公園の端からオーケストラが現れた。雅人たちが、自分たちの楽器を持って集まってきたのだ。
「今日は、僕たちも一緒に演奏させてください!」
おじいさんは驚いたが、すぐに笑顔を見せてうなずいた。
若者たちはおじいさんの指揮に合わせて演奏を始めた。木々のざわめき、風の音、鳥のさえずり、すべてが交じり合い、公園とその周辺全体が一つの巨大なシンフォニーに包まれた。
演奏が終わると、公園は拍手喝采に包まれた。近所の人々や子供たちも集まり、この特別な瞬間を目撃していたのだ。
おじいさんは静かに立ち上がり、若者たちに向かって言った。「君たちが奏でた音楽こそ、本当のシンフォニーだよ。」
不思議なことに、おじいさんはその日を最後に姿を消してしまった。
「シンフォニーおじいさん、どこへ行っちゃったんだろう?」
みんながそう不思議がっていたが、誰もおじいさんの行方を知る者はいなかった。
雅人も、学校の音楽関係者のつてを頼りおじいさんを探した。
あれほどの人物なら、きっと名前ぐらいは・・
しかしおじいさんは見つからなかった。
ただ、今でも公園に行くと、風に乗ってどこからともなく美しいシンフォニーが聴こえてくると言う人がいる。
「きっと、あのおじいさんが今もどこかで指揮しているんだろう。」
それから20数年が経ったある年の初秋。
栗山雅人は実力派の日本人指揮者として、ヨーロッパを中心に人気が高まっていた。
この秋ドイツの交響楽団とのコンサートを控えている雅人は、諸々のスケジュール調整に追われ、ピリピリしていた。
「全く、余裕ないって言ってるのに、どうしてTV番組の収録なんか入れちゃうんだよ」
ズリ落ちたメガネを直しながら愚痴を言い、雅人は気分転換に散歩へ出掛けた。
公園のメタセコイヤが色づき始めている。秋だなー。
・・・メタセコイヤ?
あ、ここってもしかして、あの時の公園?
「おや、これは久しぶりだね。音楽活動は、その後どうかね」
不意に声をかけられ振り向くと、それは「シンフォニーおじいさん」だった。
その瞬間、おじいさんと対峙した雅人を強烈なフラッシュバックが襲った。
よろめきながら、雅人は理解した。
「シンフォニーおじいさんは、未来の僕?」
あの、指揮のスタイル。軽く両手を広げ、指揮棒は使わない。
ベートーヴェンを得意とする、そして何より、ちょっとズリ落ちた丸メガネ。
「欧州の聴衆は、耳が肥えてるぞ。でも、同時にとても寛容だ。頑張ってこい。」
雅人は目の前のおじいさんに、もっと聞いておかなくてはならない事があるような気がした。
「あ、あの ! 」
ハッと我に返ると、もうおじいさんはいなかった。
雅人は一瞬考え、スマホを取りドイツに電話をかける。
「どうも。マサトだよ。やはり楽曲リストに、(田園)も加えておいてほしい。ああ、絶対に良いコンサートになるよ」
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