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「’解き放った表現を自分のものに留める手綱’が人間性・人間力だと思う」 みかんせいじんから恋愛小説家への手紙③ #往復書簡

まずとても返信に時間がかかってしまったこと、お許し下さい。
池松さんのお手紙に沢山の想い、優しい世界を作ろうというお気持ちや嘆きも悲しみもこの世界への深い愛みたいなのも滲んでいて、どういうお返事をしよう、と考え込みました。もちろんご指摘のことは共感するばかり(むしろひとつひとつを酒の肴に一緒に飲みたいです)で私の陳腐な言葉で何かをくっつけるのは野暮というもの。

ですので、「考えをつぶやく」個人的お手紙の利点を最大に利用することにしました。


「千住博さんの哲学」記事のリンク、ありがとうございました。私は十数年前に千住画伯の滝の作品をたった一度ですが、近しい人のご自宅で直に拝見したことがあります。忘れられない何かを記憶に残す作品でした・・・いえ、既に知っていた大切な物を そこにある と指さされた感じだった、というほうが正しいでしょうか。
ご紹介いただいた記事を読んで、あの時友人宅で感じた、胸の奥のなにかをどん、と指し示されたような感覚が どんな人の手によって生まれたのかが改めてよく分かりました。同時に、作品には魂が宿るというのを言葉で改めて確認した感じです。
あの時の私は、そこに表現された水というもの、滝という存在感に打たれたのだ、と書くのが一般的には一番分かり易いと思うのですが、その実 本当の意味で打たれたのは描き手である千住博さんというかたの「今これを描かねば」という鬼気迫るような「表現したいという熱情」にだったのだと思います。


もともと芸術分野では私は絵画が一番好きで、自ら何かを生み出す腕はもっていませんがそれぞれの芸術家が自らの表現の至高を目指した一枚の前で、好きな時間をかけて想いを巡らすのは個人的には最高の贅沢と思っています。

表現する、とはいろんな意味で人間の根源的欲求に根ざしているんですよね。特に自己顕示欲と承認欲求がそこには常に絡んでいて、でもそれらは決して悪いものではないというのを、多くの表現物から受け取ります。どうも誤解されがちだけれど、自己顕示欲も承認欲求も純粋なものは媚びも脅すこともなくただ真っ直ぐに届くものだ、と思うのです。

自分のことばで書くと、自己顕示欲・承認欲求とは「私であること」を見てほしい、存在を認めて欲しいと思うこと。そして「私は私である」というのは 他の人間と繋がりたいという気持ち(コミュニケーション欲とでもいいましょうか)を別の表現にしたに過ぎない、とも思います。自身が「私」を認めても 周りからそう見えているかどうかはいつも分からないからこそ、ここに居る、ここにある、と声にしたいのですよね。

いろんな芸術分野で共通していると思うのですが、その直球な熱情みたいなものは見る者、接する者の心に確実に届く。受け取る者の記憶や感情のどこかに確実に糸を伸ばしてくる作品には、純粋な自己顕示欲と承認欲求というものが 人との繋がりの根源にあるもの、共感とはまた違う相通ずるものに形を与えて見せてくれる気がします。

そうそう、「ねむの木学園」のアーティストたちという、作品と各個人が有名になったことがありますね。私は彼らの作品に純粋な自己顕示欲と承認欲求の力強さを見るのです。彼らの作品になにか心を掴まれる方は同じような「糸が届く」感覚をもっているのではないかなぁと。


さて、どうしてねむの木学園の話までをしたか、といえば、まさに池松さんが仰ったように 表現するものにはやはりそれらの根源的欲求が多かれ少なかれ関わっているということと、さらには多くの人にはそこに絡みつく「他人の目にどう映るだろう」という感情とのバランスが取り難いのだろうなぁと私が思っていることを書きたいからでした。ねむの木学園のアーティストが有名になった一つの理由は、「他人の目」という部分は極端に薄く「伝えたい、届けたい」熱情がストレートだからかなと思っています。
技術やモチーフ選び、作品の完成度など、千住画伯とねむの木学園のアーティスト達とは全く違うところにある、それでも共通するものがあるんじゃないかと思うのです。見た者の心に、そこに潜んでいる記憶や期待や経験といったものの何かに、まっすぐ直接届いてくるもの。それは表現者が自分のなかにあるどうしても形にしたいもの、人間の根源的欲求がひとつの形をとったものなのかなぁとぼんやり思います。

自己顕示欲・承認欲求と「他人の目を通した自分の評価」は、前者たちが自己の内面である一方 後者が自分ではどうしようもない他者の中で起こることです。けれど私達は後者をなんとか良いモノにしたいと足掻きます。あるいは足掻くまでせずとも その評価に傷つきたくないからそもそも名前を出さない、とか。

そのバランスの取り方は本当に人それぞれで、もっと言えばその人の人生の中のどの時点か、ということでもバランスポイントは違っていて、だからこそ人間性というか人間力がそのまま現れるんだろうなと思うのですね。隠そうとしても現れてしまうのだろうなと。

以前も書きましたが、どんな人生経験のステップも夫々の本人には必要な時間と経験なのでそれが悪いとは全く思っていません。ある時期には「この一面は他人に見せてもいい、だってこれだけで私という個人は特定出来ないし 私個人はもっといろんな側面をもった人間だから」というように割り切っていて、でも同時に個人の中ではちゃんと統合させることのできる余裕があれば全く問題無いのです。

大事なので繰り返しますが、個人の中で夫々の側面を統合させることの出来る余裕があれば良いのだと思います。その余裕は個人の中心にあるものをちゃんと匂わせるし、どこかで不用意に放ってしまった言葉、つたない表現を 自分という全体の中に引き戻す力も持っていると思います。

言葉はそのひとの思想を現していると私は思っているのですが、言葉でなくても表現というものはそういう無意識のものを現す力を持っている。その表現の力を本人が過信せず軽んじず手綱を握っていられる(=それぞれの切り口・側面を自分というものに統合できている)限り、不用意な一言・temporaryな表現が暴走することはないと思うんですね。

自分のものに留める手綱こそ、真の人間性・人間力なのかなって考えています。


SNSの本質は(中略)「ゴリゴリと不健全に頑張らなくても、身の丈にあった世界で生きていける」事なのかもしれません。

そうなんですよね!
身の丈に合った・・・どの切り口を見せるか、どの程度の範囲の人へ届けるか届けないか。どこまでそのままな自分を出して、どこは隠してちょっと「ご想像にお任せ」するのか。全部全部。

この前提・・・この切り口は私の全てじゃナイですよ、という表現者のことを受け手は忘れがちになります。もの凄く自戒を込めて、「この切り口が全てではない」は何度も受け手は繰り返すべき。。。なのですが。

で、何かの表現をつづける私達はどこかで気付かねばと思うのです。「一側面として出しているだけのものであっても、他人は私全体を見た気になる」と。ここに至ると、「手綱=人間性」の真価が問われるなって思います。そして・・・まさにここ。SNS利用方法の本質、これは手綱を持った上で各個人がきちんと考えるべき所だろうなって考えています。

「クリエイターには、責任感と覚悟が必要」という千住博さんのコトバには「作品の受け手は、身勝手で多様です。世に送り出されたコンテンツを、それぞれの価値観で解釈します」ということや、それを受けて「ここに人間的なコミュニケーションを成立させたい、と願いながら創作する必要がある」という事は、「ますますSNS利用方法の本質が問われている」と読み解けるのです。

ちょうど3回目の往復書簡を書き始めた頃、普段健康を自負している私はなんと倒れまして(大笑)すっかり溜め込んだ思考も言葉も泥の中に沈み込んでしまいました。(泥、は比喩ですが、まぁ私の抱え込んだものは大抵澱んだ深い沼みたいなところにある、っていつも思っています。)5千字超えた手紙の下書きも殆ど書き直し 大笑

で、具合が悪かった間に、久しく読んでいなかった本を再読しました。有名な本なので多くの方がご存知とおもいますが、ヴィクトール・フランクル先生の書かれた「夜と霧」の新版*です。もちろん「これ以上ない」というような極限ではありますが、「今・この瞬間を生ききる」という千住博さんの言葉を当に分かり易く教えていただいた感じでした。

ぐるりと一周して それらの繋がっていないのにちょっと重なりをもった表現・言葉を受け取ったとき、私の泥の中から浮かび上がったのは「ああ、誠実に生きないとなぁ。一生懸命生きていかないとなぁ」でした。さらには、「それを私の形で表現したいな」でした。

人間ってどうしたって内面の旅を避けては通れないんですよね。でも螺旋階段を上るように同じ所を回っているのかと思うような1歩を重ねて、同じだけれど少し違う景色(結論)に辿りつけたとき、そこへ昇るよう促してくれた人々とのご縁に泣けるくらい感謝します。池松さんからのお手紙はまさにそんなものでした。ありがとうございます。

自分で得た結論を修正するにしても再確認するにしても、何度も私達は自分を見失ったかと思ったり傷ついたような気分になったりします。その時に「とにかく少し歩いてみませんか」と誘っていただいた、そんな気がしています。本当に星の一粒と一粒が出会う偶然、それになんと感謝をすればいいかわからない。「私が私であること」をまた別の形で考えさせていただけて、こんな嬉しい事はありませんでした(という陳腐な表現しか出来なくて残念・・・くそぉ(あ、失礼)そんなものじゃ済まない、大きなものなのになぁ。)。

一応「3往復を目処に」ってことで始めた往復書簡ですけど、このお返事を考える間に実際の人生で起こることとの偶然の重なりに驚いたり考えさせられたり。本当に楽しい時間でした。
これに懲りず、時々でもお手紙いただけたら嬉しいです。「書くこと・表現すること」の哲学みたいで、めっちゃくちゃ楽しいのでね。

2021年2月最後の日に。

未完成からすこしだけ成長したと思いたい たなかともこより。

*ヴィクトール・フランクル著 池田香代子訳「夜と霧」新版(みすず書房)
強制収容所を体験した心理学者が「人間とは何か」を書いた「体験記」でありその魂・精神に及ぼされるものを収容前、収容所の中で、解放された後として学術的な距離感を保つようにしながら描いた本。私は大分昔に霜山 徳爾さん訳のほうを読んでいたので、新版は初めてでした。

#往復書簡


▼これまでの 池松潤さん との往復書簡▼


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