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場所は変わっても春はくる

「あ、季節が変わった」

最初にそう思ったのは2月の何日頃だっただろうか。
高地のここでは風はまだ冷たくて、数日前に降った雪がまだ道の両脇に残っていたけれど、そのとき肌に差す「日射し」が違うと確かに感じた。

標高は1400m〜1500mといったところに私の住む町はある。
冬季オリンピック会場にもなったこの町は、当然雪もそこそこ降る。とはいえ、マイナス10℃なんていう日は一冬に数えるくらいだ。大体の気温が私の育った北関東の町くらいじゃないかと思う・・・と書いて念のため本当かどうか調べたが、まぁここより少し暖かい(冬の平均で1〜2℃)くらい?小さな町だったせいか北関東平野の空っ風のせいか、はたまた手足を出したまま遊んだ子供の頃の記憶のせいか、もっとずっと体感は寒かった気がする。

その育った町では立春のころには街角の家々の庭でちらほらと紅・白の花がほころび始める。2月の中頃には梅林で有名な日本三名園から、少し暖かい南の方からの風に乗ってうっすらとだが花の香りが町に漂い始める。
子供の頃はゴツゴツして捻れるように育つその幹と、あまりぱっとした華やかさのない花で、そのことを特に何と思うこともなかった。そしてこれは単に子供の味覚で苦手だったのだが その実を地域のひとが嬉々として手に入れ時間をかけて保存食にするという手間と時間を無駄に感じ その花木自体をちょっと敬遠したい気持ちに覆われていた。

歳をとり、物事の捉え方もそれなりに変化してきたのだろう。
まだ寒さの厳しい、春は遙か彼方と思うような厳しい寒さの中でもぽつり、ぽつりと花をほころばせる梅は 多分花木のなかでは今の私が一番愛するものだ。

大学で家を出てから30数年、この春を告げる花の時期をゆっくりそこで過ごし眺めたことはないし、今住んでいる異国のこの町に同じ種類の梅の木はない。あの、まだ冬の気配に覆われすこし灰色がかっている町のなかに そこだけ柔らかな光が放たれているかのように静かに咲く花を見たいなとぼんやり思う。


年始めに私事でロサンゼルスに一ヵ月滞在していた。そのとき散歩しながら家々の庭を眺めていたのだが、時々「あれは梅かな?」と思う木の佇まいを認めるも私には判別がつかない。西海岸の絶えない緑のなかでも植物はそれなりにちゃんと季節を感じているらしく、葉が少なかったり花が遅かったりするが、それでも私の知る季節の風景とは違って戸惑う。とても暖かいものだから「もしかして」「いや、もう散ってしまっているか」といつも頭の片隅に思う気持ちがあり、ある日それらしい木をみつけた。
ただ、海外に行くと人々のファッションや化粧がなぜか少しずつ変わるように、その花もなんとなく梅だけど似てるだけかな?と思うような雰囲気だった。

それは、初恋のひとの姿を探すみたいなものかもしれない。
初恋のひとは自分と同じように歳をとりイイ感じのおっさんになっているのを知っているが、心のどこかであの時代の自分の心の動きと周りの風景の中での「彼」の姿を諦めきれないように。


同じ花はここにはない。
でも「あ、春が来る」と感じる日射しはそこにある。
しばらく帰れていない私の国では 時々春めく光のなかであの花があの頃のように咲いているだろう。
梅の代わりにここでは草木が一斉に芽吹く準備を始めて 景色が朱っぽくなるのだが、いつか帰国して毎春見慣れた、梅の花が引き連れる春の景色を見るようになったら このパッと見ではわかりにくい高地の季節の変化を懐かしく思うのだろうか。



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