それは何の声だろう?
さて、inner-voiceを拾うの続きなんですが
まぁ、「どれが自分の心の声、身体の声だよっ」っていうときがあると思います。自問自答って思うような、あたまのなかで交わされる?会話も、私はいくつかの「声の主」があるのかなぁと思っています。
1)自分の思考の声:まぁいわゆる、自問自答です。
2)心の声・身体の声
3)自分に近い、言ってみれば「味方」の声
4)ほかのものの声
ほとんどのひとは これまでの人生で1)しか考えてないのではないかなぁ。あ、「それ以外はありえねーし」という方は以下読んでも時間を無駄にさせるだけだと思う事だけお伝えしておきますね。
次に多いであろうことは、1)と2)を混同していること。「あー唐揚げ食べたいなぁ」が、写真や本の中に出てきた描写に反応して出たら1)が多いってのは分かるのではないでしょうか。一方で「お腹空いたなぁ・・・唐揚げ食べたいな」は2)が多いのではないかなと。考えた、というより真っ先にそれがアタマに浮かんだ。それはかなり、心や身体の声と言えます。あ、お腹空いたなぁ、と唐揚げ食べたいなの間に唐揚げのニオイや写真の刺激があったら 一度自分の記憶にアクセスしてその味や以前食べたときの幸せな感じを引っ張り出して「食べたい」かもしれない(つまり1))ので、状況はちょっと変わりますが。もちろん、唐揚げの写真が先に目に入って「お腹空いたなぁ・・・唐揚げ食べたいな」の順番もあるわけで、一概にこれはこっち、とは言いがたいですけどね。まぁ、混同してもシカタナイってことです。
より2)の感覚を知りたい、って方は お腹が空き始める時間、例えばもうすぐお昼だな、ってときに具体的な食べ物ではなく、「野菜・汁物・油物・肉・魚」のように大まかな種類をアタマの中に並べてみてはどうでしょう。お金とか周辺にあるお店とかの条件なしで、です。それで自分がいいなって感じるもの(例えば今のワタシは汁物です)が 限りなく純粋に身体が求める物じゃないかなぁ、と。実際にランチ、となったら「うどん屋さんあったっけ?」とか「あそこにスープが美味しいってお店あったな」とか、ここから考えれば良い事で、それは既に1)の思考の声ですね。
ちょっと話がずれますが、「直感を鍛えるには レストランなどでメニューを見て悩まないことだ。目に飛び込んできた物をオーダーする」っていうやり方を私は勧められました。で、きっと上手くいくヒトもいっぱい居ると思うのですが、私自身は失敗組。目に飛び込んだものと「身体が欲する物」がかけ離れていることが多すぎて。それでも「直感だよ」とオーダーすると、しばらくは「あー、やっぱりあの時身体は油物と肉が欲しかったんだ、冷やしトマトパスタの気分じゃなかった!」みたいにね・・・
私には無駄に考えるクセがあるので、直感のまえに「なにがイイかな」と大まかな分類で決めてから、というステップが必要だったという。(なんでも「言われた通りにやる」が正しい訳じゃ無いってことです。ひとりひとり違うから、そのくらいのアレンジはしましょう、ってことね)
さて、問題は後半です。なにか考え事をしたとき・・・たとえば私がある場所に運転して行くため、どのルートを選ぶかと考えていたとしましょう。
1)もうすぐお昼時であのジャンクションが混むから、すこし大回りになるけど西側を通ろうか、あるいは時間にまだ余裕があるから高速は使わないでいく?
2)’山をみながら’(ルートそのものは その後考えることになります)
3)少し早めに
上の3つはそれぞれ最初に出した分類の、1)思考 2)心の声(なのでルートそのものを考えてない)そして3)味方の声 としての例。3)なんてうかんできたら、私が’ぎりぎり星人’(そう見られてないらしいけど)って知ってるとしか思えない一言 大笑
毎回約束や移動は 一応ぎりぎり星人って自覚してるから早めに、って思ってるんですよ。でも出来ない。そういうときのこんな一言がぽん、と浮かんだら、やっぱり大事な「自分に重なるくらい近い味方からの」アドバイスだと思うんです。
さて、4)ほかのもの ですが・・・最初は殆どないと思います。でも重要な決断(上記のような運転ルート、みたいな簡単なものではなくて)が必要で悩んでいるときに たとえば神社にお参りに行って「○○って言われた気がする」、そんな表現をされる方もいるじゃないですか。まぁね、ご神域だしね。悪い物なんていそうにないしね。
自分が3つくらいの可能性で悩んでいて、その中の二つ目のことをぼーっと考えていたときに目の前に葉っぱが落ちてきた、とか、突然雲の切れ間から光が差してあかるくなった、とか、それを「ああ、自分の悩んでいたなかでこれでいいんだと示して貰えた」と受け取るなら、受け取り方だって自分の責任なのだという前提のもと 4)ほかのもの(この場合神社の神様、とか)の声と受け取るのは有りだと思います。
でも例えば「その仕事を引き受ける」みたいな、短く、でもはっきりした行動を示唆されたときは 私は受け取らないと決めています。「どこからの」ほかのものか分からないからです。自分の思考の中で「そうだ、どれもマイナスはあるけれど、結果的にみんなに利をなすのはこれだ、チャレンジも、受けるだろう反対もきちんと話していくのは私の役目だ」そこまで決まってきているところで届いてくる「その仕事を引き受ける」という言葉とは大きく違うからです。前者は決定権をどこかに渡してしまった状態、後者は「自分が決めて」その言葉をアタマの中に音として、もしくは文字として具現化させた状態のちがい。
「ほかのもの」がどんなものであれ、最終決定権は常にあなたにあるのです。つまり「こうするのがいい」「こうしろ」という言い方であっても、決定権は結局自分にあるのです。それを却下しても本当にあなたを尊重してくれる存在だったらとことんやってみろ、と一緒につきあっていてくれるだけです。
仮に マンガに出てきそうな悪役キャラが「こうしろ」と囁いたとしましょう、それでも「そう聞こえたからやる」は、その声を採択すると決めた、というあなたの責任なのです。声の主の責任ではない。
「こういう声が聞こえた」だからやる。それもあなたの決定です。
「こういう声がきこえた」でも今の自分には合わない気がする。それもあなたの決定です。
ただ1つ言えることは・・・・3)に別に分けた「味方の声」、世の中ではハイヤーセルフ(だから結局自分だけど)とか守護の存在とか、もしかすると有名な大天使とか、それらは指示も、明らかなものも「最初は」示さないということです。4)のものと とても区別しにくいからです。
時代は随分変わったなと思うのですが(あるいは、私が十分トシをとってきたのか)【人間は一人で死んでいくのだけれど 絶対ひとりでいることはなくていろんな助けがまわりにある】という言葉を、「ひとは社会の中で生きている」という事だけではなく「見えない世界も自分と共にある」という解釈でも自然に受け取ることができる、そういう人がどんどん増えてきました。でも同時に、見えない世界を見てみたい、確認してみたいという欲求から「決定権を明け渡す」ところもみてきましたし、お恥ずかしながら私もそこに陥りかけたことがあります。友達が伝えてくれて初めて気付いた、そんな大きな罠です。
共にある見えない世界は あなたの決定権を奪うためには存在しません。
本当に答えが欲しいとき、その苦しさも込めて手紙を書くとか、祈るとかのやり方は 個人的にお勧めです。’手紙を書いた’ことすら忘れた瞬間などにキーワードを「見せられる」ことがあります。それは根拠なんて他のひとに示しようがないのだけれど、明らかに答えだと自分が直感すること。(このときはダイレクトに方向がみえる言葉であったりします)いわゆる、啓示、ってやつです。それを受け取ったら多分自然とわかることですが、その経緯を誰かに説明する必要もないし、周りには自分の決定だと言いふらす必要もなく、ただやる、と決めるだけなんです。
声を聞く、これができたらどんなにいいだろう。きっと苦しいとき人間はそう思うのです。誰かが正しい道を示してくれたら・・・と。
でも物事の正しさなんて、自分の胸の中にしかないのです。良心、として長く自覚もしているだろうこと。それが「外から見たらどう見えるだろう」という基準に乗っ取られてはいけないんですよね。だからこそ、自分の心の声を聞く練習をする。「世の中」「会社」「学校」「親」そんなものが考えるであろう基準を考えてもシカタナイ、そこに気付いたからこそインナーボイス(内なる声)を聞きたい、って思うのですよね。
内なる声inner voiceに興味がでた理由そのものも把握する努力ができたら、あちこちにある落とし穴に「落ちたこともわからず」いる、なんてことは減ると思うんですよ。