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山村に住むお医者さん

堂々と書いていることなので知ってる人は知っていると思うけれど、私は昔外科医でした。専門医取る直前にやめてその後結婚したし、外国行くから(いや、理由はそれ以外にもあったんだけど)病理っていう、はっきり言えば「’ちょっと変わった人’率が高い科」に転向したんだけれども。(ああ、こんな風にと書くと怒られるよね)

外科をやめる少し前、一緒に働いていた面白い若い先生がいたんです。S先生といいます。なんかぽやーんと、にこにこしながら(でもきちんとはたらき、真面目に勉強する)みんなに愛されてる先生で、ただ彼の不幸は当時の私の下についたことでした。

当時の私はまぁ、問題の多い自分の彼(現オット、まぁ差し障りもあるからあんまり書かないでおく)とのことできっとあれこれ不安定だったのでしょう、そんな私の仕事をS先生はよくフォローしてくれました。ほんと、ありがとうね。当時も今も感謝してます。

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そして私は仕事が早く終わりそうだと「夕飯に付き合え」と(だって一人飯は寂しいし美味しくないじゃないですか)S先生をよく引っ張り出していました、吉牛とかだけど。
で、ついでに呑んじゃったりすると、そしてそこに上の先生いなかったりすると、私の大小の爆発を罪もないS先生がくらうわけです。付き合わされるほうはたまったもんじゃなかったでしょうね、でも人間の出来ていたS先生はそれをにこにこ黙って聞いて(聞き流して)くれました。私はS先生にそうやって、グリム童話よろしく王様の耳はロバの耳と葦にきかせるかのようにぐっちぐっち言っていたのですよ。でも葦とは違って彼はそれを抱えたまま誰にも言いません。もうすっかりS先生は私の「愚痴のはけ口」となっていました。ごめんよSちゃん。あれはある意味、イジメだったよなと ちらっと反省してます。ちらっとだけどね。言葉だけの反省だけどね。だって結構楽しかったよね?笑

彼と働いたのはえーと、2年くらいだと思います。

その後私は医局人事で他の病院に行き、その後病理に転科し、Sちゃんとはとくに連絡を取ることもなかったように思います。(違ったら「トシで忘れたな」、ということで許してもらおう)


結婚して渡米し、4年後に家族と帰国した私は とある田舎の病院にオットとともに、というかオットを人材として欲しかったその病院にコバンザメ就職できました。

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そこで病理医として仕事をし始めて1年くらいしたとき、このSちゃん(S先生)がひょいっと連絡してきました。その海沿いの田舎まで会いに来てくれるらしい。S先生とはFB(フェイスブック)でつながっていたから連絡ついたんだっけかなぁ。もう忘れたけど。

そして遠いところ来てくれたS先生はとても可愛い彼女・・・確かその時もう婚約していた彼女を連れてきたのでした。私は甥っ子が婚約者を連れてきたかが如く、喜んで迎えました。

「K先生(わたしのこと)と仕事をして、方向性を変えることが出来ました」

そんな感じのことをSちゃん・・・もとい、S先生は言っていたのだよね。

待て、私は愚痴を聞かせる専門だったはず・・・ これは嫌味か?もしかして本当は道を誤ったのはオマエのせいだとばかり、ナイフを隠し持っているか?と一瞬思ったのだけれど、人の好いSちゃんの笑顔はただ、もうすぐ結婚するその方をちらりと見ては嬉しそうに恥ずかしそうに幸せという文字が浮かびあがりそうなものだったのです。
一瞬でもアホなことを考えた自身を恥ずかしく思う。

愚痴ばっかり言っていた記憶しか無く、ありがとうが言えなかったけど、とても嬉しかったです。今言わせてね、本当にありがとう。

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その後私達は家族でアメリカに戻りました。
その前後から時々あがってくる彼のポストには なにやら大学に入って哲学?か経済学?かなにかを学び始めたっぽいことが書かれてあったのです。仕事をしながら、家族を持ちながらすごいなぁ、と思ってはいました。

ご結婚されてから彼は長野の山の中の「村のお医者さん」になられたのです。

しかも同時に上がってくる写真は 昔連れてきたその彼女とのお子さん達の写真も混ざり、
そのうち「古い空き家を直す」写真があがり、
「休耕地だった畑(田んぼ?)を耕す」写真や
「馬を飼った」話があがる。 
馬で「切り出した木を引く」作業の話があがっています。

↓はもう4年前だけれど、地元誌にとりあげられていました。(ご本人が公開で出してたからいいかな、と持ってきました)

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面白い人だとは思っていたが(ああ、K先生に言われたくありませんと絶対言うよね)私の予想の斜め上どころか高く上空を飛んでいる。

お子さん4人がのびのびと育っていることはS先生のみならず奥様のFBポストからもわかる。ステキな生き方だと思っていました。

父親もやりながら、村の一員として生き、
S先生は村のひとと交流する診療所のお医者さんもやり
村のひとの力を借りて 家を直し馬を手に入れ畑もされ
先日 とうとう大学も卒業されたと。

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昔からそうだけど、誰に対しても偉ぶらない、一生懸命話を聞く、憎めない笑顔で周りも笑顔にするそんな先生です。

私は自分の意思で家にいる「仕事」を選んだけど、やっぱりこういう「私の尊敬する医師」たちを見る度、忙しい現場を離れたという少々の罪悪感と共に 自分が出来なかったことを淡々と日々継続されている皆さんの凄さを思い知るのです。継続するというのは本当に言うほど容易くはない。

長野県泰阜(やすおか)村、ここで村の人と手を取り合って生き、村の再生を考えながら自分に出来ることをしている大事な友人がいます。

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世界がCOVID-19で死んだように静止しつつある今、彼の生き方は「こうもできるんだ」というのをみせてくれているようにも思います。

もちろん、一朝一夕でできるものではありません。

昨日 進学先をどこにするかで悩んでいた自分の娘にも言ったことですが、
今この世界は 私達が息を潜めるように生きている間にも否応なしに変化しています。その変化はもう戻る、戻れるものではなく、誰も生きたことのない新しい世界です。誰も何が正解かは知らない。
私は より創造的であり、かつ継続することがキーワードになろうと思っているし、娘にはそのように伝えました。

「このウイルスと共存する」が前提になったとき、世界中で経済が滞ったとき、私達は沢山のことを選択する必要に迫られます。

選択して「手放す」のは怖いことです。
でも島田先生の選んだ生き方、ご家族で、地域の人達と手探りで前に進む方法を探していった経緯は きっとひとつの答えでもありそうです。

この状況から 世界がどう反応して動いて行くか、きっと皆さん不安に感じながらじっと見ているのでしょう。私もその一人です。

でも久し振りに彼のタイムラインを追ってみて、私には島田先生のこの10年強の行動は沢山の人の未来に対する光に見えます。

そろそろ、待って待って耐えるところから 次に何を「こちらから」仕掛けていくかを考える時期なのかもしれません。

まだ「現在の医療」を破綻させないように重症者を減らす=感染者総数を抑える、というのは当分必要と思われます。
それが半年か一年か、それ以上か分かりませんが、それでも確実に言えるのは人間が生きて行くための「次の活動」も考える時期だということ。

3密回避と言われる「人混み(密集)を避ける、閉鎖空間(密閉)を避ける、人との距離を保つ(密接)」はまだ大前提だし 続きます。
「自分がウイルスを持っている」という自覚で手洗い、毎回捨てるかこまめに洗うマスク(手作りマスクのマナーについてはこちらを)、咳・くしゃみエチケット、はもちろん今後も自分と社会を守るため必要です。

ちなみにおわかりでしょうが、島田先生の生き方は3密は当然回避でき、後者の手洗いなどなどはおそらくアタリマエにあることでしょう。

今の自粛のその先になにがあるの?を 無から考えるのは大変だけれど、こういうこともできているよという生き方を島田先生は見せてくれていると思います。もちろん、見て欲しくて褒めて欲しくて彼がやったわけではないことは十分承知のうえで、私達も自分なりの模索を始める時期かなと思っています。

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