(2022:その12) 正直:うそとついしょう
飯降伊蔵さんが生涯守られた朝起き、正直、はたらきですが、正直について反対側のうそから考えてみた神殿講話の原稿です。
人間はうそをつがずに正直に生きないと、信頼をどんどん失って人間関係を壊していきます。
そして疑心暗鬼な関係へと落ちて行き、結局自分が不幸になるとおもうんですよね。
バカ正直である必要もないですが、適切な人間関係を構築する為の戒めとしておや様が言われたのかなと思います。
以下、からの抜粋です。
天理教会長もいちゃんのお話 (2022年) | もいちゃん | 宗教学 | Kindleストア | Amazon
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(2022:その12) 正直:うそとついしょう
本日は、 『朝起き、正直、働き』の 正直 について思う所をお話したいと思います。(かしわ手)
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に「二九 三つの宝」という逸話がおさめられています。
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ある時、教祖は、飯降伊蔵(注)に向かって、「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」と、仰せられた。
伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」と、仰せられた。
伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。
「二九 三つの宝」『稿本天理教教祖伝逸話篇』P47 参照
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この、『朝起き、正直、働き』の 正直 について考えてみたいと思います。
正直の反対語はうそとついしょう(おべんちゃら)かと思います。
この為、うそとついしょうに焦点を当てて考えてみたいと思います。
天保9年10月26日に親神様が中山みき様に天啓を下された立教の御宣言では、
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
と仰られています。
親神様が人間を創造された目的は、人間が互いに陽気に暮らすことを見て共に楽しみたいからであるのに、人間がなかなか陽気に暮らせずに苦しんでいるのを見るのが忍びない。なんとか人間達に助かって欲しいからこの世に天下って中山みき様を通して天啓を伝えると宣言されたものです。
つまり、中山みき様の教えの根本は人間がようきぐらしができるこころになることにあると思っています。
ようきぐらしとは決して、自分自身が楽(らく)をすることではなく、周囲の方と切磋琢磨して調和しながら物事をたのしむこころになることだと思います。
人間は社会的動物ですから、お互いが互いに助け合って生きていくことが、一番心が満たされるように体も心もできています。
この為、一番身近なところから、一歩だけ人の立場に立って物事を考えられるようになると、親神様が望まれるようきぐらしができる心づかいができてくるのではないかと思います。
親神様はようきぐらしができなくなってしまう過度なあしき心づかいとして、八つのほこり(おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん)を教えられています。
これに付け加えて うそとついしょう もお嫌いと言われています。
出典は、おふでさき(注)12号-113が有名です。
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月日にハ うそとついしょう これきらい
この先なるは 月日しりぞく
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このおふでさき(注)の文章については色々な解釈はありますが、概ね以下のような意味かと思います。
「親神様の話を口では信じていると言いながらも、心では信じていないこと、これは親神様が嫌うことである。これからそのようなことをすれば、親神様の御守護が退いてしまう。」
ということです。
ただ、一般的なうそやついしょうもきらいということでもあると思います。
しかしながら、世間一般で言われるうそとついしょう(おべんちゃら)は全てが悪いことかというと必ずしもそうでないこともあると思います。
「自分は本心ではこう思っているけれど、これをそのまま本人に言ったら本人が傷つくから、ちょっとオブラートに包んで本心とは違うことを言おう。」
ということは、往々にしてあることと思いますし、こういった心づかいは相手の気持ちを慮っての発言ですから、悪いうそとは言えないと思いますし、逆にそういわないといけないと思います。
極論ですが、容姿を気にされている方に対して、自分がそのことを思ったからと言って、ずばり本人にその容姿のことを言うことが、うそをついていないのだから親神様が喜ばれるいいことだろうと思うことは全く違ったことだと思います。
おふでさき(注)で言われている親神様が嫌いなうそとついしょうとは、親神様はようきぐらしを見たいから人間を作られたということから考えると、ようきぐらしをするにあたって、悪い影響を与えるうそやついしょうが嫌いだと仰られているのだと思います。
「他人を思いやるうそ」とは正反対に、
悪いうそとは
「他人を陥れたり、だましたりして自分が得をする為のうそ」
だと思います。
このようなうそは、他人を傷つけ、自分だけが得をして、ようきぐらしとは真逆な結果にしかならないうそです。
親神様はこのようなうそが大嫌いと仰られています。
守護はしないとまで言い切っておられます。
私達人間が生きている意味は、ようきぐらしをすることです。
ようきぐらしができないような心づかいは親神様はとても嫌われますし、本人も知らず知らずに自分自身で苦しむ結果になります。
特に、うそとついしょうはダメだと念押しされています。
自分がつかれて嫌いなうそは他人にしてみても同じようにとても嫌なことです。
周囲の方の心をちょっとでも思いやれるように日々こころがけていくことを親神様は望まれていますし、私自身もちょっとでもそのようなようきぐらしができる心づかいを日々こころがけていかなければいけないと思っています。
皆様もうそとついしょうについては、周囲の方の立場にたって十分に注意されて考えていっていただければと思います。
また、うそとついしょうがなければ、それは逆に正直と言うことになると思います。
冒頭に戻りますが、朝起き、正直、働きが大事やでとおや様に言われて、それを生涯守られた飯降伊蔵(注)は最後はおや様が出直された後に本席(注)となられて天理教を信仰される方々を導かれる立場になられました。
おや様のひながたはとても大事なことではありますが、飯降伊蔵(注)が生涯守られた朝起き、正直、働きも私たちが信仰を求める上ではとても大事な目標だと思いますので、二番目に言われている正直者になれるよう、うそのない日々を過ごしていけらたら思っています。
以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)
(注)
飯降伊蔵:中山みきの没後、親神様の天啓(神がかりして、神言を発すること)を受け継いだ方。
本席:天理教では飯降伊蔵のことを本席と呼んでいる。
おふでさき:中山みきが自動書記で書いた神言の書